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電子達摩

 馬鹿なテキストから賢いテキストへ
ウルス・アップ

 かつてテキストが印刷され始めたとき、人々は単純に手書きの情報を木版か活字へ移すだけで、話は終りだと思っていた。最初のころ、印刷本は目次もページ番号もなく、ほとんど手書きテキストのイミテーション以上のものではなかった。

 しかし、次第に、そうした「馬鹿」な本は、より賢いものにされていった。タイトルページや様々の種類の番号が付け加えられ、目次や脚注が発明され、索引が付与され、文字およびリガチュア(合字)が標準化される等々。ISBN番号や、その他様々の特徴をもった現代の本は、幾世紀にもわたる発明と改良と標準化のたまものである。

 しかし、本の構造をより便利なものにすることそれ自体は、本来の目的ではない。本は読まれなければ、いくら巧みに構造化されていても、役に立たない。本の存在意義は、結局のところ、読まれることにある。読者が自らの思考によって、本の情報を「処理」すればするほど、いくつかの文章をノートに取ったり、細長い紙片やページの隅を折って目印を付けたり、そこから引用したり、目立つようにした文章に立ち戻ったり等々、本はいよいよ「賢く」なる。

 今、我々は電子テキスト時代の幕開けに立っており、予想されることかもしれないが、電子テキストはまだ、おそろしく馬鹿である。そのほとんどは、単なる印刷本のイミテーションであり、文字検索を高速に行なえるようにできるのがせいぜいである。どのワープロソフトでもいいから、ちょっとそのメニューバーを見てほしい。利用できるコマンドのほとんどすべては、字体とか大きさ、行そろえ、余白、脚注処理など、印刷出力に関連したものである。内容を処理するためのコマンドは、まずない。通常のユーザーは、コンピュータのテキストに、ページの隅を折って印をつけることも、付箋を入れることもできない。

 しかしながら、ちょうど印刷本が有用な発明と改良を積み重ねることによって、徐々にその潜在能力を発達させていったように、電子テキストが成熟することは、期待できる。揺籃期にある現在の電子テキストが、そのフォームとフォーマットによって、決定的に支配されており、これがいささかうんざりさせられもし、また困惑させられもする、重要問題につながっていることは明白である。字体は何を使っているか、文字コードは何を使っているか、プログラムは、用紙フォーマットは、ファイルフォーマットは、ディスクフォーマットは、オペレーティングシステムは、コンピュータは、プリンターは……。ひとたび本や論文の印刷が完了すると、その電子テキストのほうは、しばしば押入れのなかに忘れられ、何やら不明のバックアップディスクのなかで、埃りをかぶることになるのも、少しも不思議ではない。

 しかし、今、我々は新しい時代の夜明けを目撃しつつある。電子テキストが、テキストの構造や外見と同時に、その内容にも焦点を合わせる時代である。デジタル媒体は、あいもかわらぬ古きワインの、新しい樽に過ぎないと考える学者たちも、まだ多い――ちょうど、グーテンベルグの発明を初めて聞いたとき、ヨーロッパの大学が判断したのと同じである。オックスフォード大学が、初めてその印刷本を出したのは、グーテンベルグの発明から三十年後(1486, Ciceroの Pro Milone)であったし、ケンブリッジ大学は七十年以上も、新しい媒体に抵抗し続けた。大学人たちは、この新しい技術が、どのように古き良き学問に影響を与えることができるか、全く理解しなかった。思うに、彼らの誤認の中心は、フォーマットは内容とほとんど関係しない、と考えた点にある。

 これらの大学の図書館を一目見れば、彼らがいかに誤っていたか、歴然としている。そして、未来の図書館は少なからず驚くであろう、今日、電子テキストは、せいぜいのところ、デスクトップパブリッシングに使える以上のものではないと考えている人々がいたということに。誰にせよ、電子テキストの新しい可能性と見込みについては、想像することさえできないのである。印刷術を真に活用するために、数世紀を要したことを思えば、電子テキストに対する我々の学習過程は、まだほとんど始まったばかりだということが分かるだろう。それは、電子テキストに「印を付ける」ことから始まる。本号はこれを主題とする。ともかく、すでに一つのことは確かである――デジタル革命に比べれば、印刷革命は、人類の歴史においてさほど大した事件ではなかったように見えるに違いない。

臨済録
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 Last Update: 2003/06/04