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 鳴道集説めいどうしゅうせつ
五巻(もしくは一巻)
金の儒者李屏山の著。宋儒の語録を集めた『諸儒鳴道集』(七十二巻)の中より、排仏の説二百十七篇を選び、一家の見をもってこれに批判を加え、また彼自身の説をまとめた「襍説」および「心説」など数篇を付したもの。したがって、本書はまた、儒道仏三家を綜合せんとする著者自身の立場を示す。李屏山については、劉祁の『帰潛志』一、『金史』一二六などに伝がある。字は純甫、諱は之純、屏山はその号で、弘州襄陰(現今の河北省原県)の人、金の承安(1196-1200)末に進士となり、金朝に仕えて尚書右司都事に至り、翰林に入ること三度、大いにその才気を振ったが、中年にして道の行なわれざるを知るや、退いて著述を事とし、仏老二家に関するものを「内蒿」、その他のものを「外蒿」と称した。正大(1224-31)の末、四十七歳をもって南京に卒したというが、年齡については異説がある。彼の学は始め儒に発したが、たまたま二十九歳のとき、李翺の『復性書』を読み、彼が二十九歳にして薬山に参じ禅に達したることを知って大いに感発し、ついに万松老人報恩行秀(1166-1246)に参じて禅旨を発明し、かたわら楞伽、円覚、金剛、華厳等の説に親しみ、ついに三教一致の道学を大成し、また別に楞厳、老荘、金剛、学庸の諸解を作ったという。これらの書はこんにち伝わらず、わずかに興定六年(1222)立石の「重修面壁庵記」および詩文数篇が知られるのみである。『鳴道集説』が完成したのは著書の晩年で、秘かに弟子敬鼎臣に与えたものが、後に万松老人を通して湛然居士移刺楚才(1190-1244)の手に帰し、宋の端平二年(1235)に移刺楚才が序を付してより一般に知られ、至正(1341-67)初年の『仏祖通載』二十は、湛然居士の序と本文十九篇を引き、「諸儒鳴道集二百一十七種の見解、是れ皆真に迷い性を失し相に執し名に循い、闘諍の端を起し感業の咎を結ぶ。蓋し以て法性の融するに達せざる者なり。屏山居士深く至理を明し、折して之を論ず」と評している。また、現存の本には金華の黄溍が元の至正十七年に加えた序があり、屏山没後百年を超えてなおこの書が広く士大夫の間に読まれていたことを伝え、別に祥邁の『辯偽録』や劉謐の『三教平心論』、明の『仏法金湯録』に見られる三教思想にも本書の強い影響が知られる。いったい、本書に引かれる鳴道諸儒は、周濂渓、司馬温公、張横渠、程明道、程伊川、謝上祭、劉元城、江民表、楊亀山、張横浦、呂東莱、張南軒、朱晦庵の十三家、および「安正忘筌」の一篇で、これら諸儒の攻撃するところすこぶる多岐に亘るが、概して言えば性理の説を出でず、屏山はこれを禅の見性成仏の立場から、縦横に批判し、自家薬篭に収めんとするのであり、遠く宋初の契嵩の説に近い。なお、本書のテキストは、北京図書館所蔵の鈔本五巻がもっともよく原形を伝えるが、この本は中国ではついに開版されなかったごとくで、わが延宝二年(1674)および天和三年(1683)に京都で中野是誰や田中庄兵衛の版行したるものは黄溍序を加える重刊本である。さらに、明治二十八年(1895)に赤松連城が出版したものは、これらと別系統の一巻本で、かつて中島純なるものが巷間の古書肆より得たる京都東山古刹旧蔵の写本によるものであり、巻首に清の彭際清(1740-96)の『居士伝』より屏山伝を付載している。 (禅籍解題 247)

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 Last Update: 2002/11/01