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禅宗史研究室

達摩碑文およびその関連資料について (沖本 克己)




 〔資料4〕 菩提達摩大師頌并序碑 (空相寺)

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 以下の五本はすべて、空相寺に所在する。「菩提達摩大師頌并序碑」、「空相寺碑記」、「空相禪寺記碑」および「達摩渡河図」である。また、破損の激しい「菩提達摩圓覺大師碑」があり、内容本文は「菩提達摩大師頌并序碑」に同じである。

 拓本はいずれも日本達摩会の津森琢道師(北海道・瑞巌寺住職)の本学図書館へのご恵贈になるものである。その時、詳細な翻刻もしていただいて、我々はそれを参照しながらテキストを作成した。

 しかし、筆者の怠慢のために作業は遅々として進まず、既に数年を無為に過ごしてしまった。そのことをここにお詫び申し上げると共に、更に失礼なことにはその過程で幾分か補訂を加えた。もとよりその結果の錯誤は全て筆者である私の責任であるが、お礼かたがた、あわせご報告する。

 この碑に関しては、小島岱山氏が1990年9月、中外日報紙に「達摩大師の墓塔と石碑に出合う」と題してセンセーショナルな記事を掲載したが、既に1990年に尾崎正善氏が『中国仏蹟見聞記』第十集に「熊耳呉坂の達摩塔について」と題して報告し、中国でも一九九四年、温玉成氏が中国文物報に「傳爲達摩葬地的熊耳山空相寺勘察記」として詳細を報告しているものである。

 小島氏の話を聞いた時、達摩南来説が伝説に過ぎぬ上に、梁武帝(502-549在位)が生前に死後の謚である武帝(生前は蕭衍)を名乗る筈もなければ、熊耳山伝説も成立していない当時、ましてや熊耳山一帯は梁の版図でもないのに達摩の墓の建てられるはずがないではないか、まさに噴飯ものとはこのことだと一蹴したのだが、東京方面の一部では真面目に取りあげられていたらしい。

 その後、この騒ぎも石井公成氏の「梁武帝撰『菩提達摩碑文』の再検討(一)」(駒澤短大研究紀要第二八号、2000年3月)、「同(二)」(駒澤短大仏教学科仏教論集第六号、同十月)に詳細にして懇切な補訂説が出るに及んでひとまず落ち着いたかに見える。しかしそこで新たに提起された課題を含め、今後周到な検討が必要であろう。

 碑面は欠落も少なく読みやすいが、建造データに関する詳細は何も記されておらず、わずかに建碑者として洪遠の名が見えるのみで、洪遠については今の所、詳細は不明である。

 碑は形状から明代あるいは清代の装飾様式を持っており、年号の明らかな周囲の碑などから類推しても、さほど古いものとは言いがたい。

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 Last Update: 2003/08/07