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五山文学研究室

五山文學全集 叙

熟々我邦に於ける文學の史的發展を考察するに、平安より鎌倉時代に至るまで、恰も坂を下るが如く、次第に衰退し、鎌倉時代より海内漸く戰爭多く、人武事を尚んで、文事を輕んずるの傾向あり。

殊に元弘建武の頃、即ち十四世紀の前半より全く亂世となり、南北朝時代及び室町時代を經て、後、慶長年間、即ち十七世紀の初め、徳川家康海内を平定して覇權を握るに至るまで、凡そ二百七十餘年間、學問最も萎微して振はず。

文苑の荒蕪此時より甚しきはなし。是を我邦に於ける暗黒時代となす。此暗黒時代に於て一點耿々として社會的良心となり、文學及び思想を後生に傳へしもの、獨り僧侶あるのみ。就中五山の僧を以て其最大なるものとなす。

社會一般戰亂の大盤渦中に捲き去られ、驍將勇士、干戈の間に相見えつゝあるに當りて、五山の僧は自ら別世界を成し、靜に寺院の中に於て内典外典を攻究し、人類精神の需用する永遠不滅の道を發揮しつゝありしなり。

換言すれば彼等は彼等を圍繞せる暗黒中に於て一道の光明を放ちつゝありしなり。乃ち人をして忽ちショッペンハウエル氏の「宗教は螢の如し、光明を放つが爲に暗黒を要す」の名言を連想せしむ。然れども五山の僧は單に宗教のみに從事せしにあらずして、又兼ねて文學をも攻究し、能文能詩の名衲、其人に乏しからず。

例へば虎關、義堂、中巖の如きは、文を以て勝れ、絶海、村菴、桂菴の如きは、詩を以て勝る。而して其詩集文集、幸にして之を今日に傳ふ。其他或は日記を著はし、或は紀行を作り、文學に貢献するもの少しとせず。

是等の書類は固より純文學として頗る珍重すべきは言ふまでもなく、又當時の史料として學者の座右に無かるべからざる所なり。殊に我邦の文學史、宗教史若くは教育史を攻究せんとする者の如き、豈に五山文學を度外視して可ならんや。况んや國史を專攻する者に於てをや。

然れども五山文學は譬へば猶ほ幽蘭の深谷中にありて自ら開き自ら萎むが如く、不幸にして世の學者の爲に顧慮せられず。其大半は已に無聞に歸し、或るものは全く堙滅せんとするの境遇にありき。

上村觀光氏蚤に此に慨するあり。乃ち百方搜索、苦心慘澹、遂に詩文集百拾種、日記二十五種及び語録五十八種、總計四百八十三卷を得たり。因りて先づ其詩文集を編次して題して之を五山文學全集と名づけ、分ちて五集となして、逐次之を世に公にし、以て博く世の學者の參考に資せんとす。余深く其擧を賛し、偶々見る所を述べて以て之が序となす。

    明治三十八年十一月二十五日
文學博士 井上哲次郎識  


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 Last Update: 2003/02/17