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五山文学研究室

五山文學全集 緒言

近時諸般學術の進歩に伴ひ、我が國史の研鑽に志す者、年を逐ふて多しと雖も、南北朝より室町時代を通しては、殆んど闇黒の裡に葬られ、殊に其文學に至りては、之れを詳説する者絶えてなし。

蓋し當時の文學は、徳川氏三百年文教の淵源たるに拘らず、獨り五山僧徒の專擅する所たるを以て、其文籍の多分は、空く五山禪刹の書庫に埋沒せられたるに由るなり。

余や其憾を抱くこと多年、甞て之れが蒐集に志し、五山の禪刹に就いて、遺稿を討尋すること、殆んど三裘葛、昨夏遂に詩文集百十種、日記二十五種、語録五十八種合せて四百八十三册を得たり、

然れども其大半は寫傳の故を以て、前後脱簡、鼠咬蠧食、完本極めて稀に、句讀の如きも殆んど存する者なし、乃ち數本を對校して缺落を修補し、讀むに從い句讀を附し、先づ詩文部を分つて五輯となし、昨秋全く其の業を畢へたり。

顧みるに余や淺學菲才、固より其の器に非ずと雖も、今にして之を蒐集せずんば、原本は終に廢滅に歸して、後世再び收拾する能はざるの憾なしとせず、現に政府又は本山の保護に屬する貴重文書を除く外は、其の大部分は塵埃堆裏に委棄せられ、或は賈堅手中に轉售せらるものも亦少しとせず、

是れ余の謭劣を顧みず、敢て此事業を企圖したる所以なり、然も幾多の障礙は前程に簇生す、即ち所藏の寺院にして、藏本目録を備へざるは論なく、或は事業の成否を疑ひて藏本の貸與を拒みたる寺院あり、

尋いて出版に際し、東西兩京二三の書肆に諮りたるも、部帙の浩幹にして、且つ其の利益少なきを見て依違決せず、

幸に京都六條活版製造所主人井出時秀氏、進んで詩文部の出版を請ひ、嗣で東京裳華房主人芳野兵作氏、日記部の出版を諾せるを以て、蒐集の結果を學會に寄與するを得たるは、實に二氏の力に待つもの多し、

若し夫れ材料の採否、句讀の當否編輯体裁の完不完は一に余が責任にして、有識者の示教を俟って更に改鼠に從うべし。

余は又本集出版と同時に、五山文學小史一卷を著し、附するに年表を以てし、東京裳華房に發售せしめたり、若し本集を讀む人、彼の小史と併看せられなば、五山文學の起源、變遷、並に當代學者の小傳をも詳かにするを得べし。

本集の出版に就ては南禪、天龍、建仁、相國、東福の五山は原本の貸與に多大の便宜を寄與せられ、蒐集費用の幾分をさへ補助せられたるは、實に本集の今日ある所以にして、余は滿腔の謝意を表せざるべからず、

且つ建仁寺派管長竹田默雷、京都帝國大學圖書舘長嶋文次郎、第三高等學校教授文學士山内晋卿の一師二君は、終始輔導翼賛の勞に任じ、余をして斯業の成功を速からしめられたると、

又金閣寺閑栖伊藤貫宗、天龍寺塔頭鹿王院住職橋本獨山の兩師は各其の所藏の書籍を以て活刷稿本に使用するの特典を與へられたるとは一併芳名を録して其の高義を報ず。

     明治三十八年十二月十五日
上村觀光誌  


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 Last Update: 2003/02/17