無著道忠の学問


柳田聖山


目 次

一、 問題の所在
二、 博学の意義
三、 批判精神
四、 訓詁の学
五、 俗語研究
六、 教禅一致
七、 公案
八、 黒豆の法

 

 

一、問題の所在

 無著(1653-1745)の本領は、徹底して学問の人たるにある。彼は九十二年の生涯をただ一筋に学問に生き学問に尽し果した。彼の関心は学問以外のことに向わなかった。日本人としては全く前後に類のない存在と言える。彼は単に禅宗、若しくは江戸中期に於ける妙心寺派の宗学者たるにとどまらず、全仏教史上,延いては東洋の人文史上に最高の功績を残した学者の一人と言える。二百五十五部、八百七十三巻といわれるその厖大な著作の量と質とが端的にこれを立証する(1)。しかも、その学問の成果は、今日なお世界的な東洋学の水準に於て遜色をもたぬのみか、或るものは今日の科学研究が未だなし遂げていない分野をも含んでいる。ただこの事実を知る人は極めて少い。すでに無著の寂後、その学問を継承する人は無かった様であり、近年になって彼の遺著をひそかに利用するものはあっても、せいぜい便利で珍しい種本とされるだけで、無著の学問の全成果をその立場や精神からの深い共感をもって発展せしめるような学者は曽てなかった。これは彼の厖大な著作の大部分が自筆、若しくは数部の転写本によって伝えられるにとどまり、一般学者のために公開される機会がなかった上に、所謂宗門の学問禁制の立場から特殊扱いされて来たためである。従来、学問は禅門の賊とされ、文字の学者は等外の弟子とされて、偉大な和尚の学問の成果が、曽て和尚が意図した如くに扱われなかったのである。卑屈なまでに学問を怖れ、科学的な研究を排斥して来た宗門は、残念乍ら空前絶後というべき和尚の功績を故意に無視し、惜しむべき宝蔵を徒らに朽ちさせてしまったのである。妙心寺史の著者が、無著を白隠と対比し、

顧うに往年の宸翰中に在る『一流再興』と『妙心寺営以下の事』勅文に依り、無著、白隠の二師を評せんか、無著は妙心寺経営の一面に力め、一流再興の伝法に尽したのは白隠であらう(妙心寺史下巻二九四頁)

と云うのは、すでに無著の学問的な功績を認めぬものであり(2)、近年の辻善之助博士の日本仏教史にも、中村元博士の東洋人の思惟方法にも、共に無著の学問そのものについて注意してはいない。
  無著の学問の根柢には、遠く盧山、浄影の両慧遠や、宗密、延寿等の著作に共通する体系的な視野があり、竜樹やブッダゴーサに通ずる論師精神が潜んでおり、全く日本人離れしたスケールをもっている。無著という道号も恐らくインドの無著、即ちアサンガ論師に私淑してのものでなかろうか。彼は事実上は鎖国時代の妙心寺の塔頭である竜華院の二世にすぎなかったが、その学問的な領域は全仏教史に及び、更に中国の文献研究に関しても、所謂蔵外の経史子集の四部はもとより、稗史小説の末に至るまで眼のとどかぬものはなかった。特に中国古典の校勘や、近世俗語の研究の如き、当時の中国本土にすら猶お未だ見るべき成果のなかったものもある。しかもその学問研究の立場及び方法に於て、全く近代西洋の人文科学のそれと同じ良心的な自覚に立っている点では、科学研究の先蹤というべきである。恰も無著と時代を同じうして活躍した伊藤仁斎(1627-1705)や荻生徂徠(-1728)、富永仲基(1715-1746)、本居宣長(1730-1801)、慈雲飲光(1718-1804)等の学問的な成果が、今日の学問的な研究に何らかの継承者を得ているのに比して、無著の学問は従来余りにも注意されることが少な過ぎたのでなかろうか。
  いったい今日、日本文化、若しくは日本的なるものが問題にされるとき、それらの精神的な背景に禅を認めるのが一般であるが、所謂日本的なものの実際的内容をなす諸芸は、すべて江戸中期、つまり元禄(1688-1706)より享保(1716-1734)に至って成立したものとされる(3)。俳句、能楽、歌舞伎、茶道、墨絵、心学はもとより、剣道や武士道なども流派としての完成はすべて大体がこの頃である。もとよりこれらの諸芸は、室町、桃山に起り、前代に発展したものではあるが、社会的な浸透と精神的な昇華をとげるのはすべて十八世紀以後のことで(4)ある。特に注目すべきはそれが恰も無著の晩年、白隠の壮年期に当る点である。鎌倉・室町時代に大陸から移入された禅が、単に宗教としてのみならず、世間的な文化としてのこれらの諸芸を生み出したことは、確かに注目すべき事実であるが、それらの禅的な諸文化が真に一般社会に定着し、日本的なものとなるのにどうして十八世紀を俟たねばならなかったのか。これには、日本に於ける第二の国家の出現とされる江戸幕府の幕藩体制の強固な完成と、商工業経済の急激な発展による点が大きいとされる(5)が、今その歴史的社会的な理由を早急に見出す必要はない。ここでは近世に於ける日本的なるものの代表と見られる白隠の禅に比して、無著の学問が同じ禅を扱い乍ら全く異質的であることに注意すればよい。いわば無著の学問は、近世の日本的なるものの諸系列に属しないのであり、むしろ先に挙げた様な仁斎、徂徠、仲基、宣長、慈雲などの学問的業績に共通する近代的な意味での科学として国際的な性格(6)をより強く有っているのである。しかも、白隠に代表される日本的な禅文化が今日の世界に真に国際的な密着化を遂げるためには、再び無著の学問の真価が問われるべき時に来ているのでないかと思われる。


(1)飯田利行博士が昭和十五年頃、親しく竜華院の書庫を調査し、曽て禅林象器箋の末尾に算出されている百八十種、六百六十一巻を改めた数字である。その後、春光院の川上正史氏が紹介されたものや、仏書解説辞典が指摘する京都大学文学部所蔵のもの、及び金閣寺その他に所蔵のものなどを合せると、この数字は更に増加する。詳細な内容目録は近く発表したい。
(2)金鞭指街十七に三種業輪の説がある。続高僧伝二十三に収める道安法師の遺戒九章の第八条に拠るもので、「卿巳に出家せば、性に昏明有るも学に多少無し、要は修精に在り、上士は坐禅、中士は誦経、下士は塔寺の経営に堪能す、豈に終日一も成す所無かる可けんや云云」とあるを引き、此が地蔵十輪経二、智度論三十三、増一阿含三十八等に見える如来三種業輪の説なることを考証している。無著が寺門経営を以て自己の使命としていたかどうか疑問である。
(3)辻達也氏、徳川三百年の遺産(中央公論、昭和三十九年九月号)。
(4)前記、辻達也氏の論文。
(5)この見方は語弊があり、専門的説明を要すると思うが、科学の超民族性の意で仮りに使用しておく。
(6)江戸時代に於ける日本的なるものの特色の一つに秘伝重視の傾向が挙げられる。富永仲基は、これを日本の神道の特色として次の如く批判するのであるが、その尤も根深いものが近世の禅宗にも認められる。云く、「扨又神道のくせは、神秘秘伝伝授にて、只物をかくすがそのくせなり。凡かくすといふ事は、偽盗のその本にて、幻術や文辞は見ても面白く、聞ても聞ごとにてゆるさるるところもあれど、ひとり是くせのみ、甚だ劣れりといふべし。それも昔の人は人の心すなほにて、これををしえ導くに其便のありたるならめど、今の世は末の世にて、偽盗するものも多きに、神道を教るものの、かへりて其悪を調護することは、甚だ戻れりともいふべし。」「彼のあさましき猿楽茶の湯様の事に至るまで、みな是を見習ひ、伝授印可を拵へ、剰価を定めて利養のためにする様になりぬ。誠に悲しむべし。然にその是を拵へたる故を問ふに、根機の熟せざるものには、たやすく伝へがたく、又価を定めて伝授するやうなる道は、皆誠の道にはあらぬ事と心得べし」(中村元、「近世日本における批判的精神の一考察」による)。ここに曽て日本文化の根柢にそれらを創造した精神力として認められた禅が、近世では日本文化の諸芸に列ぶ禅へと顛落し来った迹が見られはせぬか。

、 博学の意義

 ところで、無著の学問の特色は、先ずその博学にあるが、この傾向はすでに仁斎や徂徠に共通する。仁斎は、「小説稗史にも至理ありといったが、徂徠はさらに「学は雑駁なるを厭はず」、「学はむしろ諸士百家曲芸の士となるも道学先生たるを願はず」(学則)とさえいい、「学問は詩文より入りて歴史に極まり候」、「見聞ひろく事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」(答問書)、と言ったとされる(1)。この時代精神が無著の学問に影響していることは確かである。それは彼が葛藤語箋に序して普賢行願品を引き、「弁、優婆夷が浄語業を具足し、法に於て自在にして俗に随って訓釈し、宣布法化せん」といい、禅林象器箋の序に「大凡仏教儒典、諸子歴史、詩文小説、目の及ぶ所、意の詣る所、遠く蒐め近く羅し云々」と叙し、その援書目録に、経律論疏を始め、和漢内外の撰述凡そ七百六十部を挙げているのに徴して首肯される。
  無著の時代、すでに五山の学芸の風はすたれ、禅門では学問を禁ずることをよしとしていたようである。彼は晩年、金鞭指街十八に、「学を禁ずるを道の障と為す」として次のように言う(2)

道忠曰く、今時、一般の宗師、学徒を教誡して曰く、汝等須く学問を放捨すべし、学問は是れ修道の障なりと。而も是の師、別に入道の方便を示すことを会せず、只だ学徒を籠罩して兀然趺坐せしむ。学徒、是の説を聞いて喜ぶ者に二等有り。一は本より懶惰にして読誦研覃を欲せず、師の言を聞くに及んで枷鎖を脱するが如し。二は本より道心有りて之を経録に求め、情識捜索、年を経れども効験を見ず、捨てんと欲して未だ果さざるに、適たま是の説を聞いて暗に己れが意に合す、幡然として之を棄つ。其の師、誘導を欠くと雖も、渠れ曽て仏祖の言教の中に於て、久しく禅病を弁柝す、故に其の去就を謬らず。初の棄は不是にして後の棄は是なり。
又た師家、学徒をして学を棄てしめて復た別に方便を做さず。学徒、其の説を聞いて喜ばざるに二等有り。一は初発心篤実の人、師家が入做の方便を教えざるが為めに、自から仏祖の言教を見、此に依て稍向道の方を弁ず。然るに今学を禁ず、只管黙坐して遂に憑る所を失す、故に喜ばず。二は本より名利を規るが為めに学芸を励む。然るに今学を禁ず、大いに本志に違す。況んや復た打坐禅定に困しむや、故に喜ばず。初めの不喜は是にして、後の不喜は不是なり。
其の師、徒属の学業を禁ずるに亦た二種有り。一は自己不学無智にして、来問に喑じて位貌を損ぜんことを恐る、故に総に之を禁ず。外、高尚に匹似して、内心は欺誑なり。二は此の師、但だ古人の学を禁ずる者有るを見て、但だ、学解は無明を長ずと以謂い、方便を施すこと能わずと雖ども、没意智に之を禁ず。初めの禁絶は謟誑にして、後の禁絶は愚癡なり。
昔在、大慧、洋嶼に在り、門に榜して云く、参学の兄弟、未だ正見有らずして外学を務む、故に先徳、「雑毒、心に入るの誡め」有りと。老妙喜、之を門に榜し、罰、隣案に及ぶ。仍て竹箆の話を挙すに、三月五日より二十一日に至って連りに十三人を打発す。又た日本の三光国師、衆に告げて言句を放下せしめ、但だ臨済語録を看ること許す。牛を駆り食を奪って沾益すること最も夥し。此般は是れ仏祖に代って提攜し、直截に道に入らしむ。末世、豈に此の作有らんや。
苟も師家に接引の眼無く、様に依って学を禁ず、学徒も亦た向方を弁ぜず、駿黙として峭坐し、空しく歳月を過す。邪径に陥らざる者は幾んど希なり。故に大慧道く、一種の杜撰、自己の脚跟下不実にして、只管に人を教えて摂心静坐し、気息を絶せしむと(此に止る)。
余、今時を観るに、凡夫に非ざれば則ち多くは是れ外道にして、正修行の人を見ず。何に因てか此の如くなる。蓋し世に正眼の宗師の帰すべき無く、又た経録の中に向って殷勤に仏祖指南の処を索めんとせず、空しく己見に安んじて仏祖の呵斥する所を知らず、久しきを経て邪見の翻復すべからざるに至る。憐憫すべき哉。
古に云く、偏に定を修すれば無明を増長し、偏に慧を修すれば邪見を増長すと(此に止る)。独菴の光公、之を論じて曰く、文字を焼却するは是れ徳山の高蹤なり、時に人師有るときは則ち可なり、時に人師無きときは則ち不可なり(此に止る)と。確論と謂う可し。

此処では、学問軽視の弊風が正眼の宗師のないことに帰せられているが、彼は宗師の無い当代に於てこそ寧ろ学問の必要があるというのであろう。この意見は、次の一絲の書の引用によって強調される。

一絲和尚、光頔禅人に答うる書に云く、大約、学の為めにし道の為めにするは一なり、自から是れ当人の趣向同じからずして、損益是より岐るるなりと。
道忠日く、此れ確論なり。如今の懶僧、道を害すと言いて学を廃す、其の実は学の道を害するに非ず、道を害するの名を仮りて、懶堕の嘲を解くのみ、遂に経録の標指を捨てて、瞎眼の宗師に依止す。仏法は玄妙にして祖道は深広なり、未だ其の指示に憑って平生を誤らざる者は有らず。夫れ仏菩薩の経論を説き、諸師の玄言を結集するは、棟に充し車に堆して後生に誇らんが為めには非ず、正に是れ末世遠境に真の善知識無き時、洲と為し依と為さんと要するのみ。何ぞ其れ謬れるや。

かくて無著が博学を主張する意図が奈辺にあったかを推し得るが(3)、彼は更に学問を以て必ずしも自己の実践したる所に限るべきでないとし、盌雲霊雨七に次の様に言っている(4)。即ち、

葆雨日く、凡そ書を著して世に垂るる者は、須らく己の極むる所の道を尽すべし。己れが言う所を践み得ざるを以て、其の言を尽さざるべからず。譬えば画師の自から醜なりと雖ども、美人を画くことを妨げざるが如し。又た医師の人に摂養の法を教うるが如く、自ら摂養すること能わざるを以て、人をして摂養の法を尽さしめざるべからず。若し復た道を人に教えて、己れも亦た能く之を践むは是れ聖賢の業なり。故に孫子が兵法を著して自から之を践履すること能わざりしは、未だ聖賢の地位に到らざればなり、此を以て孫子を責むべからず。儒聖曰く、古者、言を出ださざるは、躬から之に逮ばざるを恥ずればなりと。釈氏また曰く、行解相応するを名づけて祖と曰うと(此に止る)。故に言行の備ることは難し。

といい、史学珠嚢四に見える孫子の失三条を挙げて、之を証している。これは全く科学者の立場である。彼は、「己の極むる所を尽す」のは学問の世界であり、「己れが言う所を践む」のは聖賢の業であり、祖師の事であるとし、この二つを混同して、前者を以て後者と誤るのは増上慢であり、後者に及ばざるを以て前者を怠るならば懶堕であるとする。いわば、人夫々の道があるに拘らず、一を得て他を得たる如く考えたり、一を得ざれば他も得ざる如く思ってはならぬとするのであろう(5)
  彼はまた、自ら悟る所を信じて、古聖の説を学ぶことを怠ってはならぬともなし、金鞭指街十八に、虚堂の普説を引き、

己事未だ明めざる者は、慎んで多く新語を出すこと勿れ、新語は乃ち是れ自得の妙にして、先聖が所得と所伝の妙を会通すること能わず。深く恐るらくは古道の淪没せんことを。山僧、凡そ江湖抱道の士の与めに往来議論するに、多く前輩の遺言往行を引いて逓いに相い激励す、庶くは昭然として古人の情状を見ることを得ん。

という。これは全く無著その人の意見であった如くで、彼の言葉は更に次の如くに続く、

道忠曰く、息耕の意、自から悟る所を信じて、人の為めに説いて古聖の説を述べざるを警む。蓋し己れ得る所有りと雖も、恐るらくは其の道の円備ならず、深広ならずして、漸漸に澆漓にして古仏の大道を喪失せんことを。豈に懼れざるべけんや。今時、経録を学ぶことを禁じて、一向に自己の得る所を説いて人を誤る者、皆な斯の罪に陥れり。宗鏡録に曰く、且らく西天上代の二十八祖、此土の六祖より、乃至、洪州の馬祖大師、及び南陽の忠国師、鵝湖の大義禅師、思空山の本浄禅師等の如きは、竝びに博く経論に通じ、円かに自心を悟り、徒に示す有る所は皆な誠証を引く、終に胸臆より出だして妄に指陳すること有らず。是を以て歳華を綿歴して真風を墜さず。聖言を以て定量と為せば、邪偽も移し難く、至教を用て指南と為せば依憑するに拠るところ有りと(此に止る)。
或るひと難じて云く、吾が宗は教外なり、若し偏えに古聖の言句に依るときは、則ち教家と何ぞ別たんと。忠曰く、吁あ、吾れ汝に告げん、自悟未だ円かならずと雖も、苟も古聖の語を説けば、人を謬らざること、鵠を刻んで成らざるも、尚お鶩に類する者なり。自悟円かならずして胸臆を談ぜば、人を誤ること、虎を画いて成らず、反って狗に類する者なり。余、今時を観るに、猶お狗にだも類せず、何の遑あってか虎を望まん。

これは甚だ激越の論であるが、以て無著の学風の本領を窺うに足るであろう。彼の学問には述べて作らずという中国訓詁の伝統が脈々と流れ、宗密、延寿の教禅一致の精神が生きていることを知るのである。
  かくて、稗史小説に及ぶ無著の学問も、単に博学を誇るためのものではなくて、徂徠や仁斎が道学先生たらんよりは曲芸の士たらんと言ったのと同じように、教外暗証の禅者への痛烈な批判から発したものであったことが判る。従って、無限な博学にも自からその中心とする所があるのであって、無著の場合、それが教禅一致としての禅の立場に終帰するものであったようである。彼は、金鞭指街二十に、自から曽ての経歴を叙して、

道忠十七歳にして法苑珠林を閲す、弥勒部に至るに発菩提心論を引いて云く、願わくは我れ此の十大誓願を以て衆生界に遍ねく、一切恒沙の諸願を摂受せん、若し衆生界の尽ること有らば、我が願乃ち尽きん、然るに衆生界は尽くべからず、故に我が此の大願も尽くべからずと(此に止る)。巻を掩うて大いに疑う、衆生界は尽くべからず、何に因てか尽きざる、大願尽くべからざるときは、則ち願の成満は何れの時ぞと。人に遇うて之を質すに暁かに答うる者無し。後年、諸の経論に有情は増減すべからざるの義を説くを看るに及んで、遂に旧疑を破れり。

といい、その経論の名を挙げて大般若経四百三十七、華厳玄談五、宗鏡録八十九等、と言っているが、以て彼の生涯に及ぶ深く且つ広い探究発願の秘密を知ることができるであろう。
  ところで、このように自からの学問の専門的な中心課題となるべきものについて、彼はまた盌雲霊雨六に、「自業を敦うして他を兼ぬべし」の一項を挙げ、

葆雨曰く、澆末の風は道純粋ならず、李卓吾が儒道を論じて、往々に見性成仏等の語を用うるが如き、豈に是れ禅宗の見性成仏ならんや。林子全書の自から三教の学に通達すと謂うが如き、然も其の仏教の未熟なるを見るときは、則ち余教の未熟なることも例して知りぬべし。仏祖統紀の本如の章に、台教の法智が一喝を下し、本如の偈を呈して禅宗の模様を做すごとき、また帰源直指に専ら往生浄土の義を明して、毎篇の末に一の著語を用て禅宗を学するがごとき、雲棲袾宏が伝禅と称して又た律乗を解し、梵網発隠を撰するが如きもの、往往に訛謬して、日本の律家の掲剥すること一ならず。
或るひと問う、今若し此の風を変じて古道に復せんと欲せば、之を奈何かす可きと為す。忠曰く、儒は唯だ儒を究め、仏は只だ仏を究め、律は只だ律を究め、禅は唯だ禅を究めば、則ち庶幾わくは純粋なるべし。専ら自宗に敦うして、余力有るときは則ち他家に曁ぶべくんば、方に博通と称すべし。張和仲が千百年眼に曰く、専門の書有るときは則ち専門の学有り、専門の学有るときは則ち其の学必ず伝え、其の書も亦た失わずと(此に止る)。此の語、最も要を得たり。

といって、博学の精神はむしろ専門的に質的な尖鋭化の極点をもつべきを主張し、特にまた出家の人が異学を学んで光陰を棄てることを誡めて、

智度論に、仏、十四難を解せんと欲する比丘を責めて言わく、譬えば毒箭を被る者の医の俗姓、弓箭の出処を知って、而る後に箭を抜くことを聴さんと欲するが如し。汝が見愛の毒、心に入れるに、此の箭を抜かんことを欲せず、世間の常と無常、辺と無辺を求め尽さんと欲す。之を求めて得ずんば、即ち慧命を失す云云。

といい、更に、

道忠曰く、吉田兼好が書に言く、人有り児に勧めて出家し、説経を学ばしむ、其の児自から計るらく、我れ僧と為る時、檀家の請を受くべし、其の家に輿輦無き者は、馬を将いて来たる可し、我れ先ず須らく馬乗を学ぶべしと。馬を学んで稍成るに、又た自から計るらく、檀主、仏事を設くるの後、風俗として芸能無くんば檀主を悦ばしむるに足らずと。乃ち復た早歌を学ぶ。二芸漸く成る時、鬢髪颯然たり、遂に説経を学ぶに及ばずと(此に止る)。今時学仏の徒、仏経を傍らにして外学を専らにし、学禅の徒は見性を外にして教相を究め、老いに至るまで家裏の事を識らず。復た是れ十四難を解せんことを求めて、馬乗早歌を学ぶ者の流れなり。

と論じている。然らば無著の学問は所謂百科全書的知識のそれではなくて、寧ろ無尽の法門を学び尽さんとする誓願の学であったのであり、方法としては諸々の隣接諸学との緊密な提攜を前提とする最も今日的な科学的な立場に外ならない。従って、禅の学問といっても、科学的な知識の立場としては、必ずしも従来の禅者の如き固定した宗学や宗典の主観的な提唱などではなくて、どこまでも文献に即しつつ、客観的に確実な知識を蓄積しつつ進む帰納主義的な態度となって来る。この点は、善かれ悪かれ無著の学問の特色であって、それが歴史的な禅の知識の綜合と体系づけにとどまって、独創に欠けるという一面の批判を甘受しなければならぬ。然し、従来の禅の学問の方法的な未分化から、きっぱりと文献学的な立場を確立した功績は極めて高く評されねばならないであろう。


(1)前田一良、経験科学の誕生(日本歴史十一、一八三ページ)。
(2)この書の由来については、後の第三章に解題を加える。残念乍ら、竜華院に現存しないが、京都大学文学部図書室、その他に転写本がある。
(3)金鞭指街十二に、「禅祖博学を貴ばず」と、「禅祖博学を貴ぶ」の事例を挙げて中道の貴ぶべきことを説く。
(4)この書の由来、また前記の金鞭指街と同断である。
(5)金鞭指街十八に「自ら得る所を記すを増上慢とす」の題下に仏説解節経を引いて同じ趣旨を説いている。

、 批判精神

 以上、無著自身の言葉によって、彼の学問の立場の大体を見たのであるが、要するにそれは安易な護教的教権主義的禅学や、暗証懶惰な主観的自得者流への鋭い批判から生れた、謙虚な科学的良心によって貫かれた限りなき博学ということに帰する。従って博学は必ずしも外に拡がる量的なそれではなくて、内に専門的に尖鋭化することが却って真に外に通ずる所以であった。今日なお禅は宗学的内観的な修行によってのみ理解できるものとして特殊化され、一般人のよりつき難いものとして故意に専門視されて、客観的科学的な研究を拒否し続けているが、無著はむしろ近代的な意味での自由な禅の学問的研究の端を開いた人であり、彼が生涯の研究の中心課題としたものは、主として唐宋期の禅思想の記録である禅籍の文献学的な解明であった。其処に先ず明確な方法的な見通しが立てられたのである。これは道学を排した古文辞学の方法に通ずる全く新しい立場であった。元来、大陸の思想や文化をすべて常に先進国のそれとして学んで来た日本民族は、常に上から下への教権的な教化、若しくは道学として受容する傾向にあったが、特に道学的な匂いの強い宋学と共に移入された禅は、一般日本人に内省的な修養として学ぶ以外の方法を封じた。今北洪川の禅海一瀾の如き、道学的な禅の最後の結実と言えるであろう。然し、もともとインド伝来の古い仏教教義の格式を破って、自由な日常の口語で商量された唐宋の禅が、宗門の専門家にしか理解できぬ難解なものとされたのは、日本の中世禅林に於ける学問の主観主義的な偏向にすぎず、又、曽て多くの独創的な生活文化の諸芸を生んだ日本の禅は、決して道学的修養に尽きるものではなかった筈であり、今日、日本的なるものが問題になる場合、寧ろ禅は特殊な宗門の専門修行者のためよりも、もっと広汎な歴史的社会的の立場から、普遍的人間的な解明を要求されているのである。もとより無著は妙心寺の第三百十四代住持職を継ぎ、塔頭竜華院の二世としての宗門人であったから、そうした禅宗教団の一員としての教権主義的偏向から完全に自由であったとは言えない。然し又一面、彼が宗門人であったからこそ、近代的な意味での普遍的人間的な関心からだけでは理解され難い禅そのものの本質を、如実に学問的に追求することが出来たとも言える。如何に科学的と言っても、その研究対象が禅であり、禅文献である以上、禅そのものの持つ特殊な歴史的伝統を無視することは許されぬからである。
  いずれにしても、無著の学問は客観的文献学の立場をとるもので、主観的観念的な解釈や臆断を極度に警戒した。博学を標榜する学問体系に於ては、個人の能力の限界を謙虚に認めるが故に、寧ろ他人の説の積極的な摂取を予想するが、それにはどこまでも客観的な知識であることが必要である。従って、自己の主観的偏向を反省するものは、同時に他人の臆見を厳しく批判しなければならない。この意味では彼は徂徠や宣長と共に、江戸時代の後期に発展した経験科学の先蹤とも言える。禅録を正しく読むということから出発した彼の学問体系は、先ず文献を正しく読んでいなかった従来の学問の誤謬の完臂なき批判から始められる。換言すれば、彼の学問体系は限りなく多方面な古人の説の批判修正の綜合であった。
  彼はライフワークの一つである敕修百丈清規左觽の冒頭に叙して、次の様に言う、

余、今此の書を解せんとし、累りに古解の 謬なる者を挙げて之を斥破し、支離なる者を挙げて之を判決す。みずから太だ繁絮なることを覚ゆ。然りと雖も若し径ちに正義のみを挙げて、其の謬りを指さずんば、則ち或は人有って他に執して異説と為さん。故に逐一に斥くる所の義を挙げて繁雑を顧みず。

又言う

世に刊布する所の鈔は、もと雲章、桃源の講説を録す、故に雲桃鈔と題する本有り。但だ此の鈔は、本拠を引くに和字を以て書し、又た古語を引くに典証を失するは、憾むべしと為す。況や筆誤刀訛、多くは文に義を成さざるをや。然りと雖も鈔中に中岩諸老の中華より伝来せる口授事迹有るべし。故に実に廃するに忍びざるの書なり。

これは実に見事な祖述と批判の止揚である。この立場は単に左觽の一書にとどまらず、彼の全学問体系を貫くものであり、古来の権威とされて来た中国の祖庭事苑などの説を完臂なきまでに斥破するとともに、かえって正論でさえあれば、同時代の人である家山や、中国僧斎雲の説を尊重し、銘記して保存してもいるのである。又、他の妄説の批判は、自己の学力の正直な反省ともなって、彼の一代の著作には、常に未決や緒余の一冊が附録され、自から解き得なかった課題を列記して後賢の解決に委ねているが、その疑わしきを安易に臆断せぬ態度は、正しく科学者の襟度と言わねばならぬ。
  ところで、無著が先輩の臆断に対する批判は常に激越である。今、盌雲霊雨十二以下の質正部によってその一二の例を引こう。
  睦庵の祖庭事苑巻一に、「釈迦掩室於摩竭」の訓詁がある。もと雲門録に見える摩竭揜室の語を注したもので、

梵に摩竭陀と云い、此に文物国と云う。室を揜うとは、世尊が普光堂に禅定したまうを言うなり。西域記に云く、昔如来、摩竭陀国に初めて正覚を成ず。梵王は七宝の堂を建て、帝釈は七宝の座を建つ。仏、其の上に坐して七日の中に是の事を思惟すと。義、揜室に同じ。

というものである。無著は注を難ずるに当り、先ずその謬りの影響を挙げて、

道忠按ずるに、雲門の語は肇論に本づく。其の涅槃無名論に云く、釈迦は室を摩竭に掩い、浄名は口を毘耶に杜づくと(此に止る)。文才の疏に曰く、摩竭は国なり、法華に説く、如来成仏より三七日中、説法したまわずと。智論の第七に云く、仏は得道より五十七日、説きたまわず等と、義をもって掩室と言うなり。

として、睦庵の謬りが元の文才に及ぶことを明かにした後、いよいよ批判のメスを下す。

道忠曰く、睦庵誤って普光堂三七日思惟の事を援いて、以て摩竭揜室を証す。又た自から牽強して室の字を消し難きことを覚えて、乃ち西域記の梵王が七宝の室を建つるを撮し来って揜室を成せんと欲し、遂に言う、義は揜室に同じと。
夫れ釈迦掩室の語、諸録に比々として在り。睦庵が此の解十たび出でてより、之を謬らずというもの莫く、三七日思惟の事と為す。文才の博該と雖も、猶お其の錯を承く。況んや才より下なる者おや。肇法師、寂定中に在って横に点頭せん。
忠按ずるに、釈迦室を摩竭に掩うとは、本と諸仏要集経に出づ。経に曰く、仏、摩竭国奈叢樹間に遊ぶ、其の郷土の北に山有り、因沙旧と名づく(此に帝樹石室と言う)、大比丘衆と倶なりき。乃至、爾の時に四部の弟子、各おの仏に往詣し、経を聴かんと欲すと雖も、専精なること能わず、講ずる所の法を厭うて、各各忽忽として慕求する所多く、五濁を追逐して以て事業と為す。仏、心に念じて言う、衆人は所宣の道教を患厭し、肯て復た来って法言を咨受せず、如来を見ず、正法を聞かず、心耳に入らず、心に思惟せず、修立すること能わず。我れ如像宴処を示現して自から形を現ぜず、他方の仏土に到って諸仏と倶に諸仏の要集を宣講せんと欲すと。仏復た之を観ずるに、東方に去って是の八万四千億に諸仏の世界あり、国を普光と名づけ、仏を天王如来と号す、現在して説法し、諸仏彼に会せり。仏、阿難に告ぐ、如来当に因沙旧室に入り宴坐三月すべし、諸天竜神、乃至人と非人と、若し来る者有らば其の意を解喩して室に入らしむること勿れと。乃至、復た阿難に告ぐ、汝石室に詣り当に座席を布き、唯だ芻草を用うべし、過去の仏如来、皆な芻草を用いて以て座席と為し、柔輭服飾の重坐を以てせず、乃至、仏は座より起って石室に入るに、無量の妓楽鼓せずして自から鳴り、天より衆華を雨ふらし、大千世界に積んで膝に至れり。仏適に宴坐し、三昧正受して其の石室を化したまうこと、皆な水精の如く、三千世界の諸有の衆生の徳本純淑なるもの悉く如来の石室に坐したまうを見る、広説。
忠此に依って按ずるに、釈尊は衆生の懈怠の相を見て石室に入り、形を隠して説法したまわず、難遭の想を生ぜしめんとなり。初め成道のとき観樹思惟したまうの事を云うには非ず。

引証やや長きに失するが、彼の訓詁は極めて周到である。この句は臨済録の序や、虚堂録その他に散見するから、無著はそれらの訓註にもいちいち質正を加えているが、前者の注には 録に詳しく弁ずと注している(1)。因みに文才の疏は、最近の塚本博士編、肇論研究にも引き継がれて、成道後の不説の意として普曜経七の文に当てられており、リーベンタール博士の訳註書に引くラリタビスタラの引文もまた同じ誤を犯している。織田辞典が諸仏要集経を併せ挙げるのは、恐らく無著の説に拠ったものであろう。
  祖庭事苑の誤謬の追及は、無著の訓詁の随処に存して枚挙に遑ないが、同じく盌雲霊雨十三に、上堂立聴を百丈の創意とする睦庵を退ける説などは注目すべきである。即ち、

祖庭事苑(八)に曰く、或るひと問う、毎に諸の仏経に質すに、集まる所の四集未だ嘗て坐せずんばあらず、今禅門の上堂に必ず立って法を聴くは何の謂ぞや。曰く、此れ百丈禅師の深意なり、且つ仏会説法には四衆雲萃して、所説の法義、性相に局わらず、所会の時節、未だ久暫を知らず。今禅門は仏教東流より後六百年にして、達摩祖師方に漢地に至る、文字を立せずして心印を単伝し、直に人心を指して見性成仏せしむ。所接の学者をして、一言の下に頓に無生を証せしめ、聚まる所の衆、非久にして暫なり。故に坐することを待たずして立つ。百丈の曰く、上堂升座に主事徒衆は鴈立側聆し、賓主問醻して宗要を激揚するは法に依て住することを示すなりと、此れ其の深意なり。

とあるのを退け、彼は立聴を仏制とするのである。

道忠曰く、之を仏経に質すに、四衆皆な坐すとは、且く退坐一面の文有るのみ。此の文は仏経に往々之を見る。然れども立聴は是れ仏制なり。智度論に云く、仏法の中には諸の外道の出家、及び一切の白衣の仏所に来到するものは皆な坐す、外道は他法なり、仏を軽んずるが故に坐するなり、白衣は客の如し、是の故に坐せしむ。しかるに一切の五衆は身心仏に属す、是の故に立つ。若し得道の諸阿羅漢は、舎利弗、目蓮、須菩提等の如き、所作巳に弁ぜり、是の故に坐することを聴すも、余は三道を得と雖も、亦た坐するを聴さず、大事未だ弁ぜず、結賊未だ破せざるが故なりと(此に止る)。此に由れば、出家の五衆は得道の者を除くの外、坐して聴法することを許さざるは、西竺の古制にして、竜樹の論に日を掲ぐるが如し。百丈の深意、説くこと多からず、集ること久しからざるが為めに此の規を創立するに非ず。睦庵、智度を援いて問に酬うること能わず、臆断して百丈の新立と為す。誣妄と謂つ可し。智論に復た言く、坐する者は供養に於て重からず、立つ者は恭敬供養の法重しと(此に止る)。彼の退坐一面の者は特に得道来賓の威儀のみ。是の故に華厳に善財の聴法に、起立合掌して白すと言い、其の足を頂礼し合掌して立つ等と言わざるは無し。楞厳に世尊微細の魔事を説くことを許したまうに阿難起立し、并に会中の有学の者は頂礼し伏して慈誨を聴けり。又た大集経に云く、金剛光蔵世界の大衆は娑婆世界に至て釈迦牟尼如来を覲見したてまつり、頭面礼足し右繞三匝して、却て一面に在りて合掌して立つと(此に止る)。此は是れ来賓も亦た立つ。蓋し法を敬って供養を重しとすればなり。又た薩婆多毘尼に曰く、一面に立つとは、阿難は仏を恭敬するが故に坐せざるなりと。

この説は敕規の左觽二十、古清規の鴈立側聆の注にも詳論されており、智度論は巻第十の文で、「坐するは供養に於て重からず、立つは恭敬供養の法なり」に続く一段であり、正しく完璧の論陣、雞を割くに牛刀を以てするものであるが、清規の一句、禅録の一語たりとも決して忽せにせぬ無著の訓詁は、先に象器箋の援引書目に見たように、大蔵の経律論はもちろん、経史子集、百家の書より稗史小説に至る万巻の文献を踏まえた立論である。睦庵の非はすべて経律を精読せざる臆見の論たるにある。ここに明確に看取できるように、経律論を博捜して禅録を解しようとするのは無著の禅録研究の態度の一つで、正しく教禅一致の説に立つものであるが、詳論は後段にゆずろう。
  何れにしても、無著の盌雲霊雨は、到るところ右のような筆法による先学の批判で充たされており、対象とされているのは、事苑を筆頭に、契嵩の正宗論と輔教編、覚範の林間録、贊寧の僧史略、義楚の釈氏六帖、道誠の釈氏要覧、法雲の飜訳名義集、劉謐の三教平心論を始め、普灯録、五灯会元、仏祖統紀、雲臥紀談等の史書や、長水子澹、元照律師、憨山徳清、雲棲珠宏、霊峯智旭、蘧庵大佑、永覚玄賢、等の訛を質し、又我が国人では虎関師錬や、寂照堂谷響集の説を批判し、更に無著と同時代の独庵玄光、卍山道白、面山瑞方、義諦等が爼上に挙げられる。又、左觽では雲桃の古解が完臂なきまでに攻撃されているが、一般に我が中古の学匠たちの説には、すでに秘伝的なものがある。特に禅録中の古則関係の語義などは、密参帖の伝授と相俟って殊に秘重されて来たために、語学的にも歴史的にも問題のものが多い。これは中国に関する知識が常に憧憬され乍ら、日中交通の途絶のために正確な資料を欠いていた五山末期の衒学の弊とも言えようが、無著は、其等の批判についても攻撃の筆鋒をゆるめぬ。今一例を挙げると、臨済録に有名な四料簡の一段があり、人境両倶奪の答語として、「并汾絶信独処一方」の句がある。彼は先ず古解を挙げ、

道忠曰く、世の解する者の謂く、并と汾と音信を絶するなりと。而るに此の解は素より典拠無し。并汾は隣並の州にして、同じく山西に在り、同じく禹貢冀州の域なり(広輿記、又一統志にあり)。余謂うに、言うこころは、同じく極北に在りて中国と信を絶するなり、并と汾と音信を相絶するの義に非ず。宋高僧伝(十一)汾陽無業の伝に曰く、并汾の人悉く皆な化に向うと(此に止る)。また僧宝伝の汾州太子昭禅師の伝に云く、并汾は地苦寒たり、昭、夜参を罷むと(此に止る)。汾州の事を記して并州を兼ぬるは、其の近隣なること知るべし。

といい、地理上の疑点をついたのち、更に歴史的な問題について、

或るひと曰く、人天眼目の解に云う、呉元済、蔡州城に拠って并汾二州を取り、朝命に応ぜず、是れ即ち信を通ぜずして一方に処るなり、乃ち人境倶奪なりと。如何か此れ拠りどころ有りや。忠曰く、是れ大妄説なり、古より此の妄説を質正せずして、以謂へらく、史伝に或は是の事有らんと、遂に鈔録して世に伝う。痛むべし、旧唐書、新唐書の呉元済が伝に都て并汾を取るの事無し。元済が屠掠する所は皆な河南の地にして、黄河以南に在り。并汾は山西に在りて黄河巳北なり、地隔って遠きこと甚し。大慧年譜を按ずるに、張九成、臨済の人境両倶奪を挙す、師曰く、余は則ち然らず、公曰く、師意は如何、師曰く、蔡州城を打破し、呉元済を殺却すと(此に止る)。杜撰家、此の人境倶奪の答に依って、并汾絶信に捏合し、遂に呉元済が并汾を取るの妄説を幻出し、後世百千の学徒を誑惑す、悪むべき哉。凡そ日本中古の悪知識の妄説を構うる、此の類一ならず。

と断じている。右の引用は、盌雲霊雨十八によるものであるが、臨済録疏瀹のものは更に幾分か詳しい。因みに目下フランスに在ってドミエヴィル博士の下で禅籍の翻訳に専念している畏友柴田増実君の言によると、ドミエヴィル博士は臨済録の右の句について、古来の注が信用できぬことを指摘されたという。数年前、無著の注のことを柴田君に話したところ、博士が京都大学文学部に疏瀹のマイクロ撮影を依頼して来られたのは殆んどそれと入れ違いの時期だったと記憶する。
  古則の参究という点から言えば、語義や歴史地理的な理解は末節であろう。特に大慧が此の則に加えた、呉元済云々の一句の如き、拈弄としては正しく千均の重である。処がそうした参究の場が、何時の間にか歴史地理的な学問の知識とすりかえられる。語学や歴史地理の知識は、参究の場とは異質であり乍ら、それが先聖の古則機語として参究されるとき、すでにこのすりかえが始まる。宗教的な参究の立場からは、歴史地理的知識は、あくまでその背景にすぎぬが、それが歴史地理的背景とされる限り、その知識は歴史地理の学問体系に属する真理としての正確さが要求される。古則参究の場に学問が無力であるように、参究的真理は古則の歴史地理的解明に対して無力である。無力であることを知っている参究者は尊ばれてよいが、無力たるを忘れた参究が歴史地理的妄説を弄する時、彼はすでに参究の真理をも謬るのである。
  インドの仏教を消化して自己の宗教とした唐宋の禅を、再び先進文化として学んだ日本中世の禅が、常に負い続けた右のような課題を、生涯をかけて突破したのが無著の学問であり、白隠の看話であったと私は考えるが、この二つの道は更に唯一の禅の真理をめざして対決されずにおかぬアポリアを含んでいたのでなかろうか。無著その人の古則参究の経歴と、禅そのものに対する彼の意見については更めて後述する。


(1)この 録が、後の盌雲霊雨、金鞭指街、長汀布嚢の三部作の前身であることについては、次章に解題を加える。

、 訓詁の学

 無著が葛藤語箋十一巻の稿を完成し、その総敍を書いたのは延享甲子(1744)の五月で、自ら九十二翁葆雨忠題すと署している。彼はこの年の十二月二十三日に示寂するが、西紀に還算すると翌千七百四十五年の正月に当る。葛藤語箋の最初の脱稿はその奥書によると、元文四年己未(1739)九月五日で、八十七歳の時であるというから、それから五ケ年を経過している。この間に、寛保元年辛酉(1741)八月には仏祖三経把燭十巻の校閲を終り、同じく九月には禅林象器箋二十巻を成稿して序を加え、更に翌寛保壬戍(1742)の正月には金鞭指街二十巻、盌雲霊雨二十巻、長汀布嚢二十巻を成稿し、夫々叙を加えている。更に大慧書栲栳珠の末尾の附記によると、この年十月六日より十一月十八日まで、開山忌その他の八日を除く三十五日間に亘って、連日大慧書を講じている。これが無著の最後の禅書の講演となった様で、聴衆は毎日七八十人に及んでいるが、無著の最初の講演は延宝四年(1676)の春、美濃の関町の梅竜寺に於て活堂に代って、同じ大慧書を講じたのが始めらしく、当時二十四歳であるから、大慧書に親しむこと前後七十年である。三経の注は曽て宝永元年甲申(1704)の講説をまとめ、一たび元文五年庚申(1740)に親しく浄写してあったものを更めて検討したのであり、象器箋も正徳五年乙未(1715)、六十三歳のときに脱稿されていたものの再検討である。金鞭指街以下の三部は、曽て 録の名で全七冊三十五巻にまとめられていた研究資料の集大成で、これを改編して三部とし、自ら南面百城三種と称したものであり、紀年録によればその改編は享保二十年(1735)七月に行われ、翌二十一年六月には再び校訛の筆を加えているから、これも晩年最も心血を注いだ著作の一つといえる。享保十一年(1726)に自ら親しく浄写成稿した臨済録疏瀹巻一の掩室杜詞の条には、先に注意したように「 録中に詳しく弁ず」と注しているから、この時すでに大体の原稿が出来上っていたのである。このように無著がその晩年に至って、一代の著作の主なものに更めて改訂の筆を加え、自ら浄写して序を附し、寂後に残そうとした情熱にはただならぬものが感ぜられる。
  いったい無著は、本当の著述は寂後に残すべきものと考えていた様で、盌雲霊雨七に著書は急に世に行わるるを忌むとして、古人の例を挙げ、

余冬序録に曰く、周恭叔、伊川を記して云く、某、易伝に於て巳に成る、但だ逐旋修改するに、七十を以てして其の書を出す可しと。先生、書に於て軽しく注せず、軽しく出さざること此の如し。其の春秋の諸解における、要皆な是れ六十より後の事なり。中庸の解、意に満たざりしとき、後遂に之を焚く。其の軽しく伝えざること又た此の如し。

といい、又た、

因学紀聞に曰く、程子の易伝は晩に始めて門人に授く。止斎が春秋後伝も亦た曰く、此れ身後の書なりと。劉道原が謂く、柳芳が唐暦は本皆な同じからず、芳が書未だ成らずして之を伝うるに由るが故なり。

といい、更に、野客叢書の末尾の記によって、

紹彭が撰する王勉夫の墓誌に曰く、野客叢書三十巻有り。親族の仕達する者、木に鋟って以て伝えんと欲す。先生之を辞し、顧みて子弟に語って曰く、吾が目未だ瞑せざるときんば、且く将に増益する所有らんとす。

とあるを引き、更に、

道忠曰く、古今の人、書を著わし草々として世に流す、上なる者は疾かに人を益せんと欲し、下なる者は疾かに己れを顕さんと欲す。然れども躁く流布する者は必ず悔改するもの有り。清凉の華厳疏の如き、其の随好品の疏に、初め戒緩を以て地獄に堕すと解す。疏巳に流行し、全悟というもの疏の失を見るに忍びずして、改解すらく、此の経の因、果海を該ぬる等を毀るを以て、故に地獄に堕すと。即ち鈔の中に清凉は全悟が義を述べて云く、疏巳に行わるるに縁て、疏を改むるべからず、請うらくは後賢審詳せよと(此に止る)。忠謂うに、清凉が鍛錬円熟せるすら猶お此の如き者有り、疏若し未だ行われずんば疏を改むべきのみ。故に草々として流通するは、久々に鍛錬するに若かざるなり。

と論じている。これは古人の語に寄せて論じてはいるが、彼自から期するところあったことを知らしめる。眼の黒いうちは敢えて著書を出版せぬというのは、将に増益するあらんことを思う執拗無比の情熱であり、正しく老いの将に至らんとするを知らざるものである。棺を覆うて後定まる底の彼の学問の不断の発展を示すものである。改訂に改訂の筆を加え、八十九歳の晩年に至って、漸く象器箋に序し、

或は斜陽に対し、或は残灯を挑げ、多く歳月を累ねて、稍や遺漏無きことを覚ゆ。

という彼の自信の程を察すべきではないか。彼が二百五十五部、八百七十三巻という著述を、貞享元年(1684)三十二歳の時の小叢林略清規を除いて、生前遂に一部も出版しようとしなかった理由が此処にある。当時、出版は極めて盛大であった。鈴木正三の草分けや、因果物語、驢鞍橋の如き、既に数度の版を重ねているし、至道無難の即心記も自性記も、共に生前の出版である。後に白隠が自筆の夜船閑話その他の版を興した例もある。江戸中期といえば、史上空前の文運の隆昌とともに、一般書林による開版が異常な発達をとげた頃である。仏書や儒教の書のみならず、文芸書や技術の書も続々と出版された時代である。又、何か他の経済事情が無著の出版を阻んだとも思われぬ。彼はれっきとした正法山妙心寺の住持であり、草創竜華院の二世である。檀主毛利公は好学の家系である。出版の可能性はあった筈である。事実、無著が序した叢林公論や、臨済録、敕修清規の如きテキストは、彼の生前に寺院や書店で出版されているし、又、妙心寺の四派の一である霊雲院の開祖の語録に、派下の故を以て無著が元文二年(1737)に自ら校訂し、序を加えた見桃録は、彼の寂後四年目の延享五年(1748)に出版されているではないか。
  無著は自分の仕事に科学者としての明確な自覚を有っていたと思われる。それは科学が将来を導くものという信念である。彼は同じく盌雲霊雨七に、著述が世を益する仕方について、

元照律師曰く、当世を化するには講説に如くは無し、将来に垂るるには書を著すに如くは無し。

という句を、仏祖統紀(三十)より引き、元照の句が、実は韓退之の張籍に答うる書(韓呂黎集十四)に基づくものであることを注意している。これは元照律師の句の出典を明かにするためではなくて、中国に於ける学問の伝統精神を説こうとしたものと思われる。
  布教の書、啓蒙の書は相手を予想する。正三や無難、白隠の書がそれである。然し学問の書は直接の相手を予想せぬ。無著が生前に自著の出版を意としなかったのは、正しく知己を身後に俟つものであった。彼は、書を著すことの早きを忌む、として、劉元城語録の言葉を盌雲霊雨七に引いている、

先生(司馬温公)曰く、吾が友(劉器之)後世、未だ遽かに議論を立てて以て古今を褒貶すべからず。蓋し見聞未だ広からず、世を渉ること浅きが故なり。且く孔子が如きんば、万世の師なり、(云云)孔子年五十余にして方に諸国に歴聘し、十四年にして魯に帰る時、孔子の年六十三歳なり。乃ち始めて詩を刪し書を定め、周易に繋し春秋を作り、只だ数年の間に一生の著述を了却す。蓋し是の時、学問成れり。世に渉ること深し、故に其の著述始めて後世の法と為る可し。譬えば水を千仭の源に積んで、一日之を決すれば滔滔汨汨として直に至るが如し。其の源深ければなり。若し夫れ潢潦の水は、乍ち流れて乍ち涸れ、終に至る所有ること能わざる者は、其の源浅ければなり。古人書を著すこと多く暮年に在るは、蓋し此が為めなり。

源深流長とは、曽て石室祖琇が臨済禅の隆替を評した語であるが、無著の学問もまた一たび決せば滔滔汨汨として海に至るを期するものであった。
  ところで、無著が千仭の源に積もうとした学問の本領は、何であったか。禅録を正しく読むという意図から出発した彼の学問が、先ず祖庭事苑等の古い辞書類の謬りを正し、足らざるを補う批判研究に向ったことはすでに述べた。このような文献批判的研究は更に自から禅録そのものの本文批判と訓詁に発展する。写本や刊本の中から最良の古本を選び、他の異本によって訛を改め、欠を補って定本を作る仕事は、禅の文献研究のためにどうしても必要な基礎工作であり、ここから正確な訓詁が生れる。無著の一代の著作は殆んどこの二つの仕事に終始した様で、それは単に禅書のみならず、大蔵の仏典はもとより、和漢の経籍史書の本文の校勘記が、彼が読んだ古典のすべてに附せられ、それを独立させた校訛や校疑、疑誤、考証、語箋、助覧(目録)等の書が極めて多い。いったい、祖述を尊ぶ東洋の学問は、訓詁を至極とする。五字の文を解して、時に数千言に至る註疏や、屋上に屋を架する繁鎖哲学はその過ぎたるものであるが、聖賢の精神に生きようとする学問が、古典そのものの定本作りと、正しい訓詁を先ず第一の仕事とするのは必然である。仁斎や徂徠の古文辞がそれであり、清朝の考証学がそれである。真の学術研究の名に価するものは訓詁に極まると言ってよい。無著がこのような仕事に自己の使命を見出したのが、歴史的にどんな先輩から受けた影響か明かでないが、時代的には仁斎や徂徠と同時の彼に、やはり同じ情熱が動いていたことは察せられる。象器箋の初稿の成ったのは、正徳五年(1715)であり、翌享保元年に大陸では康煕字典が完成している。以来、無著がこの字典によって旧稿を改訂したことは確かである。然し、大陸に於ける考証学、特に校勘学は無著より遅れているという(1)。大陸の校勘学への無著の影響は勿論認められないが、学術研究の方法に於て彼は全く新しい時代を拓いた人と言える。特に無著の学問の尤も斬新は成果の一つは近世俗語の研究にある(2)。禅録を読むためには、唐宋の口語文学に精通しなければならないことはすでに知られていたが、従来の研究は極めて貧しかった。前述したように、それが我が中世禅林の密参、秘伝の伝統に阻まれた点も大きい。主観的な臆説を、さも室内の秘事の如くに扱う傾向は、少くとも語義に関する限り全くナンセンスである。無著は金鞭指街十二に、「平常の話に強いて禅会を作すもの」を戒めて云う、

道忠曰く、事々物々、愛して奇特玄妙の解を作す、此を名づけて禅会を作すと為す、猶お普請の僧が肚飢え、飯鼓を聞いて大笑せるを、古徳の以て観音の入理と為るが如き、(法見の現量を碍う処に引く)平常の話に禅会を為すもの、当に例して知るべし(3)
愚堂国師、濃の慈溪に在り、一日衆に告げて云く、後園の柿樹の曲枝、汝輩直に折り来れと。一衆提撕して以為らく、曲中に直有るの道理を示すならんと。下語するもの数人みな契わず。一僧驀直に去って曲枝を折り来って呈す。国師大笑して之を賞す。
又道者元禅師、長崎に在り、施主の斎に赴いて還る。襯金有りて懐に在りしに適たま廁に登して金墜つ。衆に告げて云く、金屎上に在り、汝輩捉え来れと。会衆、以て浄穢無二の義なりと為し、著語するもの数転なるも、元肯わず。一人有って起止の処に去り、金を挑げ洗浄して元に呈するに、元点頭す。

こんな例は極めて多い。黄檗外記には、後に愚堂に嗣いだ大春貞和尚が曽て隠元の下で、斎時に飯盤を地に堕した時、隠元が桶底脱麼と叫んだ話を掲げ、「元の軽薄なる此の如し、其の風の虚豁なる知るべし」と評している。
  俗語や禅的術語の解読は、あくまで学問の領域に属するもので、臆断や、主観的な境涯によるべきではない。中世的な秘伝はもとより不可である。稗史小説にも真理ありとされる真理は、先ず文献そのものの客観的な理解から始められねばならぬ。そのためには、同時代の用例や資料をできるだけ多く集めて本来の語義をつきとめねばならぬ。一字一句の意味を正しく把むためには、その一ばん古い用例に遡る必要がある。これが尤も基礎的な第一次の仕事である。実証的根拠のない解釈は、如何に秘伝伝承と雖ども、ひっきょうは主観であり、途中の論にすぎぬ。たとえ妥当の説であっても、まぐれ当りでないことを証する根拠が問われる。従って、此処では徹底した出典主義が尊ばれる。内容についての主観的な解釈はそれから後のことである。無著の訓詁は殆んど自説を省いているが、繁を厭わぬ用例の列挙の間に、自ら彼の解釈が窺われる仕組みである。出典の引き方と配列そのものが、すでに彼の独創的な意見を示しているのである。
  従って、それは単に当面の一字一句だけを抽き出すのではなく、該当の語や句を含む原典の本文に即して、古人が曽て使った意味を全体的に理解しようとする努力となる。局部的なサワリだけを情緒的に鑑賞する傾向にある日本人として、無著の学問は全く空前絶後である。原典そのものの完全な博捜なくして、本当の訓詁は生まれ得ぬ。曽て白氏文集が流行した時代、読まれたのは主に詩の部分である。唐詩を受容した人々も大体が唐詩選や三体詩に由るものであり、中国通史と言えば十八史略であった。禅録でこれに当るのが碧岩であり、無門関である。禅林句集という便利なアンソロジーの出現は、ムードを喜ぶ日本人独自のものである(4)
  無著の畢生の大著である葛藤語箋と禅林象器箋の二部は、敕修百丈清規や、臨済・虚堂・大慧、正宗賛等の所謂七部の書そのものの研究の結論としてまとめられたもので、恐らく当初からそれを目指したものではなかった。辞書作りは、厳密な資料の博捜と正確な訓詁の基礎の上に築かれる。長い年月と不断の努力が前提される。九十二年の無著の生涯は全くこの仕事に尽きたと言える。晩年に於ける彼の疲惓を見せぬ情熱は、それら生涯の業績を自から整理することに捧げられたのである。


(1)吉川幸次郎氏、「日本人の心情」
(2)今日、近世俗語研究というのは、口語文学の歴史的源流とみられるものを指し、主として口語文法学上のそれであるが、無著の場合はそれらを含めつつ、俗諺や格言、特殊な教義的術語等に及ぶ一種の広汎な民俗学的関心からの研究とみることができる。
(3)金鞭指街十、禅教同帰の項に、伝灯九の潙山章に見える一僧の木魚の声を聞いて拊掌大笑した話、及び広灯八の百丈章に見える鼓声を聞いて呵々大笑した僧の話を挙げ、華厳経五十七の離世間品の菩提心習気、教化衆生習気の説を引き、更に曽て伶利の一僧が肚飢えて流涙したのを衆僧が買いかぶって感歎したという往事の見聞を録している。
(4)無著に禅林句集弁苗と、続禅林句集の作がある。今日流布の禅林句集は貞享五年(1688)に巳十子が改編増補したものであるが、無著のテキストはこれと異って居り、自筆本は未整理の草稿の如くである。又別に禅門方語集というのがあって周到に出典を挙げているが、やはり同系統の句集である。

、 俗語研究

 今、語箋の中から一二例を引いて無著の訓詁の方法を見よう。巻八、四言の人倫の条に、羅睺羅児というのがある。もと西域方面から流行し、唐宋代には一般に七夕に祭られた民俗信仰の土偶であるが、無著は、この語を含む文を先ず虚堂録と趙州録から引く、

虚堂の顕孝録(三丈)に曰く、但だ願わくは来年、蚕麦熟して、羅睺羅児に一文を与えんことを。
○趙州録の下(古宿十四の廿七丈)、十二時の歌の中に曰く、哺時申、也た焼香礼拝の人有り云云、願わくは我れ来年蚕麦熟して、羅睺羅児に一文を与えんことを。

無著はこうして虚堂の羅睺羅児の句が趙州に基づくことを明らかにした後、いよいよ訓詁にとりかかるに当り、例によって古解を批判して云う、

忠曰く、羅睺羅児は、古今紛然として弁明を欠く。伝灯に趙州の歌を載するも、伝灯の鈔に解無し。竜溪は、賤乞の称(此に止る)と為すも、是れ「一文を与えん」の語に依りてこの臆説を作すのみ。

竜溪は、臨済録や虚堂録、正宗賛の鈔を作った人で、当時最も読まれた訓詁の一つであるが、無著は彼の説を承認せぬのである。最も、竜溪は虚堂録の鈔の著者としてよりも、妙心寺の法系を改めて、隠元に嗣いだ人として、無著はこの人を宗旨の上から厳しく批判してやまず、黄檗外記はそのために書かれたのあるが、今はもとより学問的な吟味である。無著は、虚堂録犁耕四の顕孝録の訓詁では、竜溪の説を更に詳しく引き、

伝説に羅睺羅児は賤乞の称なりと。或は云う、除夜の儺鬼の類と。羅睺羅は阿修羅なり、秦に覆障と言う、月明を障うるを謂うなり、儺鬼の義近きか。

というが、これは羅睺羅児の代りに阿修羅を解したもので、全く問題にならぬ。さて、語箋の訓詁は、禅録中の出拠として次に趙州以外の左の四例を掲げ、

○古尊宿廿一(十四丈)、五祖の演の録
○続古宿五、誰庵の演の録(一丈)
○又同六、竹庵の珪の録(三丈)
○介石の臨平の録(二丈)

等に皆な此の語有りとするが、犁耕では夫々の出典について全文を引き、特に五祖演和尚録の文は、「紹興の年の刊本には摩睺羅児に作る」と注し、更に別に続古宿録の日集にある五祖演録の文を挙げて、こちらではすでに羅睺羅児になっていることを立証することを忘れぬ。因みに無著が、明版大蔵中の古尊宿語録の成立以前のテキストを求めて、紹興刊の古尊宿語要四巻と、嘉煕二年刊の続開古尊宿語要六冊とを、累年の努力によって写し取り、校勘を加えたことは、彼自身の古尊宿語要目録一巻、古尊宿語録目録一巻、続古尊宿語要目録二巻等によって知られ、周知のようにこれらの書は幸いに続蔵経に収められて、今日の研究者を裨益している。処で、語箋の解は次に続く、

○忠按ずるに、続酉陽雑爼五(九丈)に曰く、道政坊の宝応寺に王家の旧鉄石有り、及び斉公が喪する所の一歳の子は、之を漆すること羅睺羅の如し、盆供の日毎に之を寺中に出だす。
○又た天中記の五(卅七丈)、七月七日の部に曰く、七夕に俗に蝋を以て嬰児を作り水中に浮べて以て戯を為し、婦人の子を生むの祥とす。之を化生と謂うは本と西域より出で、之を摩睺羅という(歳時紀事)、俗に摩喝楽とも云う。
○東京夢華録八(四丈)に曰く、七日七夕、街内に皆な麼喝楽を売る、乃ち小塑の土偶のみ。悉く雕木を以て欄座を彩装し、或は紅紗碧籠を用い、或は飾るに金珠牙翠を以てす。一対の直い数千なる者有り、禁中及び貴家、士庶とともに時物と為して追陪す。

彼はかくて、この語が唐宋時代の俗文学の書に表われることに注目し、更に方輿勝覧二、及び鄭所南の大義略叙を引いて、これが西域より流伝し来った俗信なることを立証し、最後に結論を与えて云う、

忠曰く、羅睺羅は、或は、摩睺羅に作る。俗諺の通名なること知るべし。今は蚕麦熟すと言えば、則ち是れ七夕の摩睺羅には非ず。蓋し村裏の土偶神を亦た摩睺羅と称するのみ。蚕麦熟せば則ち銭を将って之を祭り、以て賽して願うべしとなり。今蚕麦熟すと言うは、学人が道業の成熟を謂い、羅睺羅児は虚堂自から比し、或は本分の主人公に比す。一文銭と言うは向上の一著子なり。言うこころは、但だ願わくは諸人が道業成熟の時、我が為めに向上の一著子を還し来れとなり。

正しく適確な資料により必要にして充分な手続きを経て、虚堂の原義に迫ったものと言えよう。ラゴラ仏が何ものであるかは、今日では常識であるが(1)、無著以前にこのことを指摘した人はなかった様である。先年、小林太市郎氏が発表された七夕と摩睺羅仏の研究は(2)、遺物及び民俗資料を豊富に使用した労作であるが、結論は勿論無著と一致する。しかも無著の考証のあることを知らずに、全く別箇に行われた研究である。次に、更に他の一例を見よう。
  巻十、六言の動作の部に、颺在無事甲裡の句がある。この句のエチモロジーは、今日の学界でなお結著を見るに至らず、先般来、我が入矢義高先生と中国の胡適博士との間で数番の論議が交わされ、途中で胡適博士が亡くなるという難物である。無著はここで先ず次のような出典を挙げる、

続灯二十(廿丈)、雙峯斉の章に曰く、横拈倒用、諸方は虎歩竜行して狗を打し門を撐う、雙峯は無事甲裡に颺在す。風に因って火を吹く、別に是れ一家の春云云。
○大恵武庫(十丈)に曰く、晦堂和尚、学者に謂いて曰く、你、廬山の無事甲裏に去って坐地し去れ。
○慈受の深の焦山録(十一丈)に曰く、慈受に一宝有り。乾坤の内に尋ぬる処無く、宇宙の間に著不得、有る時は糞掃堆頭に埋在し、有る時は無事甲裏に颺在す。
○虚堂の興聖録一(十四丈)に曰く、一物を拾得して、無事甲中に颺在すること多年なり。

次で五山の学匠の第一人者に数えられる瑞溪周鳳の説を挙げて云う、

夢語集に武庫(五十一丈)の語を挙し、珍蔵海の曰く、棚を架するに甲乙丙丁を以て之に命じ、凡そ常に用いざる物をば第一の甲棚に置く。故に第一の棚を称して無事の甲と言うなりと。瑞溪曰く、此の義可なり、但だ坐地の字は未だ穏かならず。棚上は人の坐すべきに非ざればなり。然れども譬説なるときは則ち害無し。又た慈受深禅師の録に、無事閤中に向って刀を隈し箭避くの語有り、甲を閤に作れば、即ち坐地の字方に穏かなり。

今日、一般の禅語辞典にとられているのは主として前の蔵海説である。然るに無著はこれを退けて後義を採用し、甲と閤の近音を主張しようとして他の用例を博捜するのであるが、先ず瑞溪の慈受録の例が彼の家蔵の本にないことを附記して、

忠曰く、予、慈受録を蔵するも、但だ資福、焦山、慧林の三会録有るのみ。南堂の題跋を按ずるに、猶お霊隠、蒋山の二録有り。瑞溪が援く所は豈に彼の中に在るか。

といい(3)、次で普灯録廿一の大潙行の章に、無事閣裡とあるを引いて、閣と閤が通ずることを正字通によって訂し、同じく普灯二十五の仁山欽の示衆や、枯崖漫録の陳叔震の序に、無事閤裡とあるのを見つけ出す。かくて遂に断を下して、

忠曰く、普灯及び慈受の録に、無事閤に作る。仍って知んぬ、甲は本より閤に作ることを。音近うして仮借せるのみ。無事閤とは、恬静無用の室にして、猶お中阿含経に無事の室、無事の処と説くが如し(第六一丈、第八十五丈)。方に拠るところ有るを得たり。蔵海が胸臆の説、信用するに足らず云云。

といい、更に蔵海の臆説の出所を推して、

又た按ずるに前漢書六十五(十丈)、東方朔の伝に曰く、甲乙の帳の注に応劭曰く、帳多きが故に甲乙を以て之を第するのみと(此に止る)。蓋し蔵海の臆造は之に影取せるか。

とする。用例を集めて語原を決定し、先人の説の謬れるを訂し、足らざるを補ってゆく無著の訓詁の方法が、此処に見事に貫かれているのを見ることができる。
  最後に、現在の中国学界で注意されていない俗語が、すでに無著の訓詁で明確に解決されている一例を見よう。蒋礼鴻氏の「敦煌変文字義通釈」は、敦煌変文を中心とした唐五代の口語研究の権威で、一九五九年三月に初版を出し、一九六二年に増訂第三版が出たが、後者の第五篇、釈情貌の項に、末上の語を収め、維摩詰経講経文に、
末上に先ず弥勒を呼んで毗耶に入らしむ。
とあるを挙げ、これを葛藤語箋巻五の解によって「先」又は「最初」の義とする。この語は初版では注意されなかったものであるが、横浜大学の波多野太郎氏の指摘によって増補したものという。末上は、諸橋博士の大漢和辞典では、「最後をいふ」として全く逆であるが、もちろん語箋の解が正しいのである。蒋礼鴻氏は、伝灯録二十四の清凉文益の章に、

見ずや、石頭和尚・・・・・・一片の言語有り、喚んで参同契と作す、末上に云う、竺土大僊心云云。

とあるを引証するが、無著もまた既にこの句を根拠として最初の義としており、更に同義語として、末頭、上梢の二語を収める。張相氏の「詩詞曲語辞匯釈」に、この三語の何れも収めぬ処から見ると、従来、一般の口語としては注意されなかったものの様である。
  又、吉川幸次郎博士の「日本の心情」に、「三尺下って師の影をふまず」という俗諺が中国の古典の考えでないことに注意され、中国の書ではあっても儒家の書でない「教誡律儀」と、日本人の「童子教」の説に基づくことをW大学のM教授の指摘によって知ったと述べていられるが、無著が盌雲霊雨十四に説くところは実は周到である。即ち、

寂照の谷響集(八)に曰く、問う、俗諺に云く、弟子は七尺を去って師の影を蹈まずと、聖語なりや。答う、当に言うべし、七尺を去らず、師の影を蹈まずと。善見論に云く、弟子は師に従って行くに、師に遠ざかること七尺なるを得ざれと。又た沙弥威儀経に云く、弟子は師に従って行くに、足を以て師の影を蹈むを得ざれと(法苑珠林)。道忠曰く、寂照が援く所の珠林の文は、伽藍篇(五十二)に在り。忠、善見を按ずるに、実に「七尺を去る」に作り、俗諺に「七尺を去る」という正に論の文に合す。恐らくは珠林は其の句読を誤れるか。
善見毘婆沙律に曰く、若し和尚が将に去らんとせば、衣を著し鉢を持して、和尚の後に随い、近づくことを得ず(句)、遠ざかることを得ず(句)、和尚を去ること七尺にして行け。
道忠が句を断ずること此の如し。珠林或は遠く和尚を去ることを得ざれ、というを以て一句と為せるか。
行事鈔に亦た曰く、善見に、弟子は師に随って行くに、師を去ること七尺なるを得ざれ、応に師の影を蹈むべからざれ、是を離せば応に白して知らしむべし。資持記に云く、善見の中に、彼に七法有り、一に太だしく遠ざかれば聞えざるを恐る、二に太だしく近づけば師の影を踏むことを恐る、三に(乃至)、七には左右七尺許りに立つべしと。今は二と七の両法を引くなり。
道忠曰く、元照が太遠を以て一と為し、太近を二と為すは、予の句読と相い同じ。事鈔の不得の両字は、恐らくは衍文ならん。沙弥威儀に曰く、城に入って乞食する時四事有り(乃至)、二には当に随うべし、足を以て師の影を蹈むを得ざれ。
沙弥十戒法、并びに威儀に曰く、沙弥は師の為めに作礼するに十事有り(乃至)、九には師を離るることに七歩を得ざれ。
道忠曰く、一たび足を挙ぐるを跬と為し、再び足を挙ぐるを歩と為すと(正字通)。蓋し七歩は太遠なり、師の影を蹈むは太近なり。

一句の俗諺の解に、戒律の明文を引き、一本に七尺が七歩となっておれば、中国語の歩が両足の進む距離の意なることを確かめずにおかぬ彼の訓詁を、人はベダントリーと言うかも知れぬ。然し、すべてを納得の行くまで究め尽さずに措かぬこの貪欲無比の執念を、九十二歳の寿齢の尽きる時まで保持し続けた人が他にあろうか。
むしろ、祖録の一語一句に、一刀三礼のメスを加え続けた科学者の真理に対する敬虔無比な態度をこそ、我々は彼に学ぶべきでなかろうか。


(1)諸橋博士の大漢和辞典では、巻五に摩睺羅、巻八に喝磨楽を収め、巻二の化生をも同義語として指摘する。
(2)支那仏教史学の第四巻三号より四号(昭和十五―六年)に亘って発表された「七夕と摩睺羅考」。
(3)続蔵経(第二編第三十一套の五)所収の「慈受深和尚広録」は、その巻三の東京慧林禅寺慈受深和尚陞堂頌古上に、瑞渓の指摘する一段を含んで居り(294c―d)、編者は隈を畏に訂している。

、 教禅一致

 上来、無著の訓詁が禅録に含まれる難解の語句を、その原典に遡って理解するという尤も祖述的な方法によるものであることを見た。出典第一主義ともいうべきこの方法は、俗語は俗語として唐宋の最も的確な基礎文献に戻すとともに、教義的な術語はすべて経律論の大蔵にその根拠を求めようとするものである。それは、彼が「胸襟の禅」と呼ぶ後代の固定した観念的理解を捨てて、本来の仏教に帰ろうとする精神から来ている。このような祖述的な訓詁は、一面に中国的な経学の伝統の継承であるが、特に禅を仏教と区別せぬ教禅一致の立場を前提とするものである。いったい、無著は禅と教の関係をどう考えていたのであろうか。
  金鞭指街巻九の禅教同帰、及び巻十の禅教離合の二章に、彼はこの問題を取り上げているが、無著は先ず教と禅を次のように規定する、

道忠曰く、教家の語る所の玄理は、即ち是れ禅宗の悟る所の心法にして、禅宗が悟る所の心法は、即ち是れ教家が語る所の玄理なり。雲上の雁、釜中の羹、以て之が譬えと為す可し。

教を玄理、禅を心法とする無著は、それを本来不二のものとし、教禅一体の立場こそ、教を全うし禅を全うするものと考える。教を離れた禅や、禅を離れた教は共に誤りである。彼は続けて言う、

道忠曰く、口に水を説て謬らず、目に水を観て錯らざるも、唯だ是れ水を飲むことを得ず。故に熱渇は除かず。是れ教と禅との弁なり。身、禅家に在るも、但だ水を観じ水を説いて、水を飲まず渇を除かざる者は教人なり。身 教家に在るも、能く水を観じ水を説いて、水を飲み渇を除く者は仏心を悟る人なり。見ずや、伝灯は禅史なるに、天台の智者、華厳の清凉の語を採って編入す。是れ即ち教家にして、仏心を悟るが故に、禅史に隔てざるや此の如し。

このように、教を禅に於て見る彼は、また禅を教に於て見るべしとして、

道忠竊かに謂うに、若し教説を以て禅修に準えば、則ち禅学の者が情を尽して颺下し、単えに死生に抵敵せんことを要するは、猶お般若部の一味に根塵を洗滌して余説を雑えざるが如し。若し復た禅学の者が五家の門庭、細大の宗旨を究むることは、猶お自余の大小乗教の無量妙義、差別の法相の如し。学仏の士は須らくこれを悉すべきなり。

といい、禅教が本来一つであることを主張する。「経は是れ仏語、禅は是れ仏意なり、諸仏の心口、必ず相違せず、諸祖の相承も根本は是れ仏の親付にして、菩薩の造論も始末唯だ仏経を弘む云云」とは、有名な唐の宗密の語であるが、無著も亦た金鞭指街にこの語を引く。彼の学問が、このような教禅一体の立場に立つことは明かである。然るに現実はこれと遙かに距り、常に胸襟の禅が横行していた。即ち、

道忠曰く、禅宗は見性成仏に急にして、尽く文字を捨てて直截入做す。故に永嘉云く、「吾れ早年より来かた学問を積み、亦た曽て疏を討ね経論を尋ぬ、名相を分別して休することを知らず、海に入り沙を筭して徒に自から困し、却て如来に苦ごろに訶責せらる、他の珍宝を数えて何の益か有る」と(此に止る)。
法然が立つる所の浄土宗の如き、亦た往生極楽に専らにして、尽く諸の雜行を棄てて、念を称名に注ぐ。故に善慧法師の曰く、「汝等、学を好まんよりは、一向に念仏せんに如かず。後日、弥陀、、観音、勢至に値遇せば、則ち何の法文か通達せざる者有らん、彼の国には昼夜説法するが故に」と(黒谷伝)。
夫れ如来の出世は、方便設教を以て一代の事業と為す。所謂る覚場より起って鹿苑に赴くは職として之に由るなり。大小階級の設は機を観じ、三宝六道の目は世に現ず。其の相を分ち其の義を弁ずる者、華厳、天台、法相、三論、倶舎、成実の諸宗、或は開し或は合し、或は抑し或は揚げ、其の賾を尽さずということ無し。然るに了性成仏に於ては蓋し闕如たり。家家に教相と観道と雙び行ずと唱うと雖も、其の観道は贅旒の如くに然り。又た禅宗、浄土の如きんば、工夫、称名に暇無きが故に、一代の設教に於て深奥を竭すこと能わず、蓋し亦た闕如たり。昼誦夜禅の輩有りと雖も、教家者流に視うるに纔かに門に及ぶのみ。禅浄二宗をして独り在らしめば、如来の教法は久しからずして地を掃わん。教宗をして独り在らしめば、如来直截入做の道、或は息むに幾からん。故に余謂らく、禅教互に闕く所を補うべしと。

この意見は、既に彼に先立って、憨山、雲棲、紫柏、霊峯等の大陸の仏教者たちが真剣に考えた所であるが(1)、無著が彼等と異るのは、同じく教禅一致、諸宗融合を説きつつ、あくまで禅に坐りを置き、端的に教禅を一体として二とせね点である。いわば彼が教禅一致なら、此は教禅一致であり、禅を以て一代仏教の帰結とする立場である。しかも無著が同じく禅に坐りをおき乍ら、所謂宗門のそれと異るのもまたこの教禅一致にあると言える。
  無著は虎関の正修論に見える宗門の立場を批判している、

正修論に曰く、夫れ我が宗号は婆伽婆の言に起る(如来清浄禅)。其の起る所は即ち是れ体性にして、其の体性は清浄の本心なり。故に我が法を宗門と称す。性相の諸宗は支竺に起る所にして、諸師に出づ。諸師の所立は法に順い義に依るも、法義の依る所は特に賢首のみにあらず、豈に婆伽が所立の体性を以て諸師の所立の法義に比せんや。
道忠曰く、正修論師、仏心宗の大体に通ぜず、弁論支離し大宗却って明かならず。諸宗に対向して吾が宗を誇称し、以て勝劣を較ぶ。何ぞ人君の臣下と其の能を争うに異ならんや。又た曽て宗門十勝論を作る、其の間に児女の見に同じき者有り。本より宗門を尊大にせんと欲して、翻って之を卑少にす、同門すら猶お之を信ぜず、豈に能く他の教宗を服せしめんや。
抑も忠が所見は却て然らず、自から謂えり、天下の仏氏は総に是れ釈迦宗なり、本より教内教外の称無し、仏滅の後、正法衰替し、教に依りて宗を立て部を分ち見に執する者の出ずる有って、迦葉・阿難が所伝の仏心に異り、遂に分れて教内教外と為る。然も其の教に依りて宗を立つる者、若し言詮を忘じて極致に詣らんと欲する有らば、則ち必ず当に仏心に帰すべし。苟も極致に詣らんと欲して仏心に帰せずんば、則ち豈に復た外道に帰す可けんか。故に余謂らく、一切の教宗、若し能く指を忘じて月を観る者は、皆な仏心を伝うべし。然るに大抵の教宗は常に言迹を判釈するを以て業と為し、仏心宗は常に言詮の外に出過するを以て家を立つ。是れ仏心宗の教宗に勝れ、諸宗の頂上と為る所以なり。何を以ての故ならば、仏心は本なり、上なり。仏語は末なり、下なり。是の故に教宗分れて十と為るときは、則ち仏心宗に十勝有るべし、教家分れて百と為るときは、則ち仏心宗に百勝有るべし。仏心は常に言迹の上に出づるを以ての故に、此を以て勝と為す。是れ我が宗門の勝を論ずる大概なり。大いに済北が所見と別なり。
或ひと曰く、若し師説に依らば、則ち禅宗は別に門戸を立つること無かる可しと。忠曰く、先に云わずや、教に依る者の宗を分つが故に、自から別に仏心宗の門戸を立つと。故に正宗記に曰く、古者、吾が禅門に命じて之を宗門と謂い、教迹の外に尊ぶこと殊に是れなりと(此に止る)。其の宗を尊ぶ人にして特に其の派を立する者は、是れ化儀なり。同じく仏弟子にして同じく仏心を悟る者は理実なり。更に今喩を設けて、禅宗の諸宗と優劣を較ぶべからざることを暁すべし。姫周の衰うる時の如きんば、国分れて十二の諸侯有り。若し周王が諸侯と競い争い、我が国は汝が国より勝れたりと言わば、此は是れ周王が愚昧にして大体を失せるなり。謂うに尽天下本より是れ周家の物なるに、敢て諸侯と勝劣を争うこと、豈に智有りと為んや。昔在、諸葛孔明が祁山を出づるや、南安、天水、安定、みな帰降し、且つ千余家を抜いて漢中に還るに、蜀人皆な賀す。孔明容を慼めて曰く、普天の下、漢の民に非ざる莫し、此を以て賀を為すは、能く愧と為さざらんやと(此に止る)。済北、十件を列ねて宗門を教家に勝れたりと為す。其の所見、孔明にだも及ばず云云。

無著は亦た虎関がその禅余或問に、禅宗に於ける経律論を設定し、楞伽、梵網、起信論を此に配するのを退けて言う、

道忠曰く、者の老和尚、元来仏心宗号の大旨を失せり(別に弁ずるが如し)。常に教家と門戸を比並して其の優劣を較べんと欲し、斯に因って復た新たに禅宗の経律論の怪説を造り、大いに宗威を損減して後生を惑わす。所謂、上梁正しからざれば下柱も参差するものなり。
夫れ達磨は言迹に泥む者を鍼砭して、権りに教外別伝の言を設け、指の外に月を見て仏心に至らしむ。其の教は世尊一代の所説にして、即今の一大蔵教なり。此の教は何れよりか生ずるや。仏心無相中より流出し、不説の中に方便して説を設け、大小の根機を度す。若し人有って我が仏心宗の経律論を問わば、忠便ち一大蔵教を指して之に示さん。何が故ぞ、此れ実に仏心より流出する者、小乗大乗、顕教密教の揀択すべき無し。此の経律論を看閲して言迹に泥まず、指に因って月を見る者は、皆な仏心宗なり。済北の論、正大ならず、故にその言枝葉多うして人をして岐路に迷わしむ云云。

無著の虎関批判は、以上の他にも盌雲霊雨十一の殆んど全巻に亘っており、その文章論にも及ぶが、畢竟、虎関の立場が、教を以て禅を論ずるものであり、禅を教に解消し去る危険あることを衝くのである。無著に於て、教禅一致は自明の真理であり、彼の仏教に対する信念であった。教禅が端的に本来一つであれば、教禅一致説は全く無用である。教と禅とを一致させたり、禅を本とし教を末として体系づけるような論証を必要とせぬものであった(2)。彼が禅録を解するのに、縦横無尽に経論を博捜するのは、この信念の自からなる発露であり、訓詁は即ち彼の仏教学であったのである。いったい大蔵経の博捜は、近世仏教の特色の一つである。すでに大蔵経そのものの刊行が、この事実を示しており、明の南北両蔵や、紫柏憨山の方冊蔵経の出版の影響によって、我が国に於ても先に天海版あり、後に黄檗版が出た。妙心寺に於ても無著の本師である竺印等が中心になって、建仁寺の高麗蔵に本づく写本大蔵が計画され、非常な努力によって短時日に完成を見た(3)。無著が始めて学問に志すようになったのも、恐らくはこの大蔵の写経生に加わったからである。彼は寛文八年(1668)より、十二年まで、前後五年間に亘ってこの事に従っている。その書写の早いことと、正確にして美しいことで定評があったという。恰かも青年期の十六歳より十九歳の間である。後年の無著の学問が、大蔵経を踏まえた博学として大成したことは当然である。
  鹿谷の忍澂上人が建仁の麗蔵を底本として明の南北両蔵と対校し訓点を加えたのは、宝永三年(1706)より七年に至る間であった。無著の五十四歳から五十八歳の間に相当する。無著が大般若経六百巻の加点を完成したのは、宝永六年で殆んど同時であるが、今日、この二つの画期的な仕事の関連を知ることは出来ない。


(1)無著が大陸の四大高僧から影響を受けたことは当然考えられるが、此等の人々に対しても、無著は極めて批判的である。例えば、盌雲霊雨十一に、論雲棲宏法師の一項があり、「惜かな宏公、其の仏書を覧ること博に非ず、仏理に入ること深に非ずして、敢て好んで書を著す・・・・・・」と言っている。
(2)贊寧の僧史略の上に、伝禅観法の一段があり、又、天台の永道法師が禅を判じて末とし、経の本に背いて末を逐うものとするのを、無著は同じ論法で厳しく批判している。
(3)妙心寺の書写大蔵については、無著自身の正法山誌四に詳しい。

、 公案

 無著は近代的な意味で、学問的に仏教を研究した最初の人であるが、今日の仏教学と異るのは、彼が伝統的実践の立場を捨てていない点である。今日の通仏教的な学問は、西洋人のインド研究が始めて開拓したもので、一応は曽ての伝統と断絶している。もとより富永仲基の大乗非仏説論が明治以後の仏教研究に何らかの影響を与え、慈雲の梵語学が西洋の学者に資料を提供したことはあるが、中国及び日本で成立した諸宗の教学の方法と、今日の科学研究のそれとは全く立場を異にする。特にインド仏教の研究分野に於ける言語学的歴史主義の成果を、中国日本の伝統仏教の研究に期待するには猶お余程の距離を認めねばならぬ。無著の学問もまたこの限界内のものであるが、又逆に其処に特色を有っている。彼は臨済宗妙心寺派に属する宗門人であるが、宗門の伝統と、彼の手堅い出典主義的な訓詁の学問とは、いったいどのように調和されていたのであろうか。この点を、彼の公案に対する意見を中心に考えてみよう。臨済禅の特色は、一般に公案にあると見られるからである。
  無著は永平正法眼蔵僭評に序して言う。

余謂うに、済洞の二家の禅に在るは、猶お教家に性相の二宗有るが如し。洞家は妙悟を論ぜず、偏えに入理の深談を作し、済家は専ら妙悟を説く。苟しくも悟徹するときは、則ち細大の法門、自然に明白なり。是の故に、二家相い扶けて仏法方に円明なり云云。

これは前述の無著の教禅一致の立場から当然な結論であるが、特に彼が済家の特色を妙悟におき、悟徹によって始めて洞上の細大の法門が円具されるという意見を有っていたことを示す。金鞭指街十六の巻首に、彼は自からの経験を追憶している、

道忠、昔瞻風して越州大安寺に在り。冬安居のとき、堂頭黙印禅師問う、子、平居に甚の話頭をか挙す。余曰く、某は話頭を挙せず、苟くも工夫純一ならば、則ち一千七百則も自然に合頭せん。印、首を掉て云く、然らず、做工夫の法はは、先づ一則の話頭を定めて、坐地に提撕せよ。此を本参の話と謂う。若し此の如くならずんば、則ち順逆の境縁に遇う時、用不著なり。余低頭して言く、謹んで教示を領すと。是の時、余甫めて二十歳、三両年来、単単に返聞聞性の工夫に従事す。故に話頭を念ぜざりしのみ。

彼はまた同書の十八に言う、

道忠曰く、余昔二十歳、錫を北越の万松山に留む。歳除に近うして、放禅に抜隊の和泥合水を看るに、曰知識を求めんと欲せば、先ず其の法の邪正と悟の真偽を揀定すべしと。又た曰く、知識の邪正を識らんと欲せば、須らく先ず自から見性の力を得べしと(此に止る)。自から疑うて謂く、若し見性の力を得、師の邪正を択ぶ眼を得ば、則ち知識を求めて什麼かせんと。徧く老僧に問うに能く答うる者無し、後来反思するに、邪正を択ぶ眼を得るは、但だ是れ学得底のみ。

無著がここで「返聞聞性の工夫」といい、「学得底のみ」と呼ぶものは、実に彼を生涯の学問生活へ馳り立てた原動力であったと思われる。彼は、公案による参究を否定しない。寧ろ、当時の公案否定の主張を断乎として退けている。然し彼が公案を肯定するのは、学問による行脚の眼の確立を前提する。彼は言う、

道忠曰く、話頭を提撕するは、円悟、大慧より始まる。理路に堕せずんば、疑団礙膺して得力の者夥し。事久うして亦た弊無きこと能わず。乃ち以て実法と為し、以て規則と為す。呆坐して公案を念ぜば、畢生に效を得難し。本是れ門を款くの瓦にして、但だ開通得入を要するのみ。然るに修禅の者、勇猛の信力を欠くが故に、別に方便を討ねず。今日明日、今年明年、昏沈灰滅し掉挙紛飛して、時光駛く流れ一生空しく過す、傷むべき哉(1)

当時、公案を実法とする弊の殆んど救い難いものがあったことは事実である。盤珪や、潮音の公案禅批判はこれを立証している(2)。更に、中世以来の五山の禅は詩文に流れて、殆んど参禅を忘れていた。金鞭指街二十に、無著は言う、

葆雨曰く、中葉巳来、五岳の禅は衰弊し、詩文を以て家業と為し、旦には山谷熟し、夕には東坡爛れて、禅道仏法の何物たるを知らず……。余謂うに、此れ即ち儒林の弊未だ極らざるに、禅林の弊先ず極れるなり。昔世尊、末世の比丘の五怖畏を説く中に曰く、三蔵を信楽せずして、好んで文頌章句を作ると(十誦律)。今日に至って其の応ずること此の如し、痛むべき哉。

また言う、

葆雨曰く、五岳の詩文は四六に弊し、四六を以て詩を作れば、詩語皆な四六、四六を以て文を作れば、文言皆な四六なり、旦夕の工夫、禅理に在らずして、
但だ四六の対語に在り。凡そ書を覧るに外典は言うにも在らず、仏経祖録を閲すと雖も、其の玄意を覘うに遑あらず、但だ文字を記持して四六の活套と為す。故に其の心行と行履と、儒に非ず仏に非ず、名づく可き者無し。鳥鼠の譬えも啻ならざるなり。

五山が詩の弊風に流れていた時、洞宗はまた無事禅に堕していた。無著は彼が最も信頼していた梅峯信禅師の言葉を金鞭指街十七に引いている。

梅峯信和尚の林丘客話に曰く、一般の烏亀、動もすれば輒ち乃祖の眼横鼻直の数句を以て宗旨と為る者有り。以為らく、此等の数語は屈奇灑落にして、一えに委曲無し、何ぞ必ずしも葛藤間絡索有らんと。此れ大いに祖宗を欺誣し、門庭を塗糊す、法社の罪孽なり云云(3)

かくて、仏祖の正法を伝えるものは、ひとり公案禅の伝統を守って来た応灯関の一流のみ、と無著は言うのである、

道忠曰く、吾が派の古徳、密室参禅の法を立つるは、是れ令法久住の方便にして、実に担板方頭の阿子と与に議論し難し。一類のひと有り、単に古人の仏法に伝授無しと説き、或は伝口令の如しと誚るを視て、一向に撥い去らんとす。余、他の撥い去て後の消息を見るに、更に別の勝絶奇特無し、但だ空談して日を消し、古人の因縁色目も亦た之を識らず。

もとより公案に弊害があるとしても、全くこれを捨て去って、方便を失うべきではない。無著は武士の帯刀の例を挙げて言う、

一の武人有り、稍や禅話を愛し毎に豁達を認めて極則と為し、参則の僧を見るときは、則ち軽忽す。葆雨為めに諭して曰く、禅僧の参話は祖師の大方便なり、深意在ること有り、浅近の議を容るる所に非ず。請う近く譬を取らん、日本の武士の大小の刀を帯ぶるが如きんば、若し智勇絶芸をして之を帯ばしめば、則ち当に乱を平げ賊を殄すべし。縦い愚怯拙術の者も亦た之を挟むときは、則ち以て武士の称を塞ぐに足れり。苟くも勇芸を逞しゅうすと雖も、但だ空腰にして両刀を帯びずんば、則ち人之を指して市商と為し、復た以て武士と為さじ。末世の禅僧は空腰なる者多し。故に公も両刀を挟む者に遇わば士を以て之を待つべし。怯拙にして揮用に勝えずと雖も、亦た軽忽する勿る可しと。其の人矍然として教を受く。

これは勿論、武士に対する随宜の説であるが、同じく金鞭指街十七に、無著は有名な松源黒豆の法の伝統を保つものは、幸いに妙心下に逐旋参の古規あるによるものだと強調する。即ち、先ず松源の示衆を掲げて、

松源和尚、滅に臨んで道く、久参の兄弟、正路上に行く者は有り。只だ黒豆の法を用うること能わずんば、臨済の道、将に泯絶して聞ゆる無からんと(此に止る)。

といい、次に自説を附して言う、

道忠曰く、三玄三要、四賓主、四料簡、五位君臣、若し之を設けざるときは、則ち臨済、曹洞の禅、今日に到ることを得んや。之に準ずるに、古徳が逐旋参を設けて、意到句到を欠かざるは、仏の慧命を断ぜざるの大方便なり。蘭溪、清拙、竺仙の諸祖師の如き、道徳高深なる者、その児孫の今日に到らざるは何ぞや。蓋し流伝の方便を設けざればなり。近来浅近の輩、逐旋参を嘲訕するも、其の説高きに似て遠き慮無きのみ。昔、吾が派下の僧、雪窓崔公、大灯派下の密参の法を譏り、敢えて公言して曰く、世、澆季に迨んで真を失い正に背き、頗僻に流るる者多し。古人の機縁語句に於て、節節に下語し、師家之を証して以て罷参に当つと(雪窓行状)。
忠謂く、崔公は浅近にして遠慮無く、古徳流通の大方便に昏し。直に方頭にして此の説を作る。此に由て西国の門派多く参禅の宗規を廃す。謂つ可し、家賊防ぎ難しと。今時若し新たに密室の参規を立せば、則ち世議必ず之を允さざらん。幸いに我が門派に此の古規有りて、流通の善巧を失わず。此箇の逐旋参の直参実悟を妨げざるは、猶お泥木の仏像が法身無相の仏を妨げざるが如し。

雪窓(1589―1649)は、妙心寺百五十六世で豊後多福寺に住した人、曽て雲居、愚堂、大愚、了堂、等と各地を歴遊して天下に雷名を轟かし、後水尾帝の帰依を受け、特に島原乱後の基教対策に功あり、鈴木正三とも親しく、持戒念仏を唱え、門下に賢巌を出し(4)、賢巌は、有名な古月(1667―1751)の師である。無著が「西国の門派多く参禅の宗規を廃す」というのは、古月の系統を指すのかも知れぬ。逐旋参は、その内容を明かにし難いが、恐らく段階的に次々と多くの公案に参ずる伝統的な方法を指すものらしく、主として大徳寺に起ったものの様で、無著は正法山誌八に、その「参則の式」について記録している。

大徳派の参則の式は、先ず碧岩巳前に二百余則の因縁に参ず(此を半古則と名づく)。南派には、則ち初発心に柏樹子の話に参ず。蓋し、大灯国師は常に学徒をして柏樹子に参ぜしめし故なり。此等の則を受用古則と名づく。又碧前二百余則の内に、亦た碧岩の古則有り。然るに後来、碧岩に参ずる時は、其の提撕は別なり。
○碧岩本則一百則、碧岩の評中に参ずる者一百則、請益一百則、此を三百則と為す。
○請益は、初め参じ畢る所の本則を、更に別に提撕し、此を請益と名づく。
○請益畢って再徧有り。再徧の後に再再徧有り。再再徧の後、伝法の前に秘曲有り。
○初心より再徧に至るまでは、朝参暮参必ず方丈の室中に在り。毎参の著語は唯だ一句なり。再再徧よりは、其の参の時と処を択ぶこと無し。凡そ師家の居る所、皆な往いて参ず、亦た朝暮に局らず、故に此を不時の参と名づく。
○再徧巳下の古則の内、亦た或いは碧岩録の本則有り。
○又た久参の学者は、東雲録に参ずることを得。東雲録は、東林雲門の頌古なり。

白隠が出現するまでの中世禅林に於ける公案禅は、殆んど碧岩中心で、一則毎に著語を置くことに主力を注ぐものであったらしい。従って学者の偈頌の教養に資するために、一方では禅林句集の如きが編纂されるとともに、他方ではそのものずばりの虎の巻が秘かに伝授されることにもなる。無著は行巻と呼ばれる密参帳について、前引の妙心寺誌に記している、

大徳派の行巻は表褙を用いず、朱を点ぜず、故意に此の如くするなり。蓋し古則因縁は、坐臥に拈弄記憶すべく、纔かに筆記するのみ、表装の具に非ず。
行巻の篋は、多くは桐板、前後に小木各四有り、機を設け之を環にして以て開く可し、鎖匙を用いず。亦た是れ常時に提撕して、少時も廃せざるの意なり。

「朱を点ぜず」というのは、もちろん句読点をつけぬの意であるが、句読の付け方で内容の理解が全く異る句に、わざと点を加えず、種々に解釈できる自由を残すものであろう。然し、実際には一句一語の読み方が秘伝とされた例は、他の多くの密参帳に窺われ、無著が客観主義の訓詁をどうしても主張せざるを得なかった事情を推せしめる。更に無著は、曽てたまたま古本屋で親しく行巻を購入した事について語っている、

道忠、元禄二年己巳十二月、古書を鬻ぐ者の処に於て、大徳の行巻を購い得たり。遇たま大徳の久参の人有り。乃ち就いて之を質すに、其の人、碧岩を開いて拍掌して曰く、是れ東福寺の九峯の手蹟なり。九峯初め業を大徳の金竜に受け、後に派を更えて東福の僧と為り、九峯と号す云云、

以下、この行巻の特色について記した後に更に言う、

又た曰く、大徳派の八境界は、本分、現成、色相、賊意、機関、把住、放行、建立なり。此の行巻の初めに●○等有り、配して之を知る可し(忠曰く、更に検す可し)。又た曰く、行巻の内に、◎有る者は、請益の弁なり、句中は賊意なり。
又た曰く、大徳の古式は、凡そ某人滅後に必ず其の行巻を焼く。督宗深く其の転謬有らんことを慮り、自から二通を写して一通をば秘在して焼かしめず(金竜院に在り)、一通をば法に随って之を焼けり。
又た曰く、華叟、頌を作って一休に与え、一休此を以て印証の語と為す。此に依って実伝より巳来、其の印証の語を定めて以て後代の濫を防ぐ云云。

元禄二年は、無著三十八歳に当るが、この記述は、当時に於ける公案禅の流弊を窺わしめるに充分である。幾世代かの師資伝授の間に、著語も、偈頌も次第に固定化し、而も時には誤った句読が、如何にも秘伝のように尊重されて来たのである。


(1)又た別の処に言う、「凡そ公案は門関を打破するの瓦石なり、しかるに学者、或いは瓦石を以て実法と為す、故に弥いよ提撕すれば則ち弥いよ進まず云云。」
(2)鈴木先生の「禅思想史研究」(一)に詳しい。鈴木正三もまた「代り法門」を批判している。共に後段に引用する。
(3)此は梅峯竺信の意見であるが、無著は逆に「準紳紀聞」に、「妙心派下の弊至れり、今後の法は洞上のみ栄ゆらむ、洞家は開祖の余風今尚ほ少しく残れり……」と記し、妙心下の衰退を慨歎している(妙心寺六百年史所引)。今回はこの書を直接調査する便宜を得ぬので、以下、しばらく金鞭指街の文のみに従う。
(4)川上孤山氏の妙心寺史に拠る(一〇〇ページ)。

、 黒豆の法

 有名な黄檗潮音の霧海指南の批判を聞こう。

此国二百年来、禅家済洞の二宗、日本の古徳祖師の、公案に下語著語など付けおきたるを取りあつめて、是れを参則と定めて、碧前百則、碧岩百則、碧後百則、此三百則を数へて破参大悟と号して、行巻袋、密参の箱に収めて、是れを一大事因縁と思へり。若し此行巻袋、密参の箱、火事に逢ひ、或は水に流れたらば、一大事因縁悉く一時に滅却すべし。此かぞへ参を教る長老の中にも名聞博学の人あり共、名利高慢の心にさえられて、是をあやまりと見て、やぶるほどの人もなし。只鳶鳥の死したる鼠を取りて秘蔵するに同じ。是れは余が悪口を申すにては少しもなし。仏経祖録の中に先徳の戒めしこと也、よくよく眼を入れて見玉ふべし。此著語下語の意も一円了解し得ず、ただ古徳の付けおきたるを、漸く師家に本分の句、又現成の句を教えられて、云ひあてておくばかりなり。児童なぞなぞを説く様に覚え侍るゆゑに、自己の本心はくらくして、破参したる智識長老の行作も、愚俗にかわる所なし。あまつさへ法慢をして諸宗をあなどり、正法を誹謗す。この故に二百年以来、禅の灯消えて、正眼の人一箇半箇もなし云云(1)

潮音の記すところは正しく正法山誌の記事と吻合し、このかぞへ参が、一休から始まったとする点も同じである。応灯関の一流に於ける逐旋参の実情が、大よそ右の如くであったとすれば、雪窓が勇断を以て之を廃し、盤珪が公案を退けたのも当然である。鈴木正三もまた当時に於ける関東の邪解を批判しており、これが潮音の言う済洞二家の洞下のそれらしく思われる。即ち、弟子恵中の石平道人行業記弁疑に、

問、所謂る関東の邪解とは詎ぞや。
答、今時の代り法門、参得等を曰へり、夫れ参禅の正意は、知解の外に在りて、以て心外の活路と為す。而るに今時の法門は、是れ妄知妄解の極りなるものなり。代り参得も亦同意にして、古の代語、別語、及び実参とは大に異なり。此の法門の源は、白井の雙林寺に起って、月江下の十人の老僧に権輿す。中に器芝、大菴の二僧、長門に発揮す、月江は道元禅師九世の孫なり。是よりして永平実参の宗風を失却す云云(2)

然し乍ら、伝統の固定化を批判する革新家が常にそうであるように、批判が単に破壊に終ることを無著は指摘する。正三が自から二百年来の仏法の中興を以て任じた劃期的な仁王禅を、無著は厳しく批判している。即ち、金鞭指街十八に、

昔、鈴木正三という者有り。本は士人にて禅を唱え、到る処に男女を教化し、又た多く書を著す(驢鞍橋、盲闇杖等七種)。大抵其の建つる所の説に謂く、凡そ妄念瞥起するは、真心に間断有るが為めなり。妄念纔かに生ぜば、則ち須く拳を握り目を努はり、脊梁を豎起して歯を切し声を揚げ、 と道いて之に闘ち勝つべし、此を二王坐禅と名づくと。蓋し其の状の金剛力士の如くなればなり。緇白の信嚮する者、数を知らず。忠少年の時に此の教大いに盛なり、爾の後、稍稍として聞ゆる無し。諸方の禅師長老、其の正邪を弁ぜず、或いは其の邪なるを知る者も口を緘して之を闢することを得ず。何が故ぞ、彼は邪なりと雖も却って邪中の得力有り。此は正なりと雖も終に得力の分無し。故に往往に折挫せられて他を伏することを獲ず。

伝統に立つ無著は、伝統の流弊を知れば知るほど軽忽に伝統を破ろうとする革新者流を許すことができなかったらしい。雪窓の逐旋参否定がそれであり、正三の仁王禅がそれである。無著が公案を退けた盤珪をどう見ていたかは興味深い問題であるが、目下のところこれを知る手がかりはない。盤珪の妙心晋住は寛文十二年(1672)で、無著二十一歳であり、一年を距てて無著の師の竺印が晋住している。無著は恐らく盤珪の不生禅を知っていた筈である。
更に又後年、無著の妙心晋住の儀が決った正徳三年(1713)に正法眼蔵僣評が書かれ、再住した享保五年(1720)に黄檗外記が書かれている事実を、看過することはできぬ。前者は道元批判の書であり、後者は隠元批判の書である。何れも時に学問の領域を突き破らんばかりに烈しい語調に溢れたもので、一読、学問の人としての無著とは異った一面に驚かしめるのであるが、護法の人としての無著は、大徳、妙心の逐旋参の伝統を遡り、松源の黒豆の法と大慧の看話を、これ等の書に護ろうとするのである。前引の正三批判が、続いて大慧の示衆を引いているように、彼がその看話の伝統を大慧に承けるのに対し、道元の正法眼蔵は徹底した大慧批判の立場で一貫されていることは周知の如くである、
金鞭指街十九に左記がある、

道忠曰く、我れ邪にして邪なる者を悪まず、唯だ正に似て邪なる者を悪む。其の故は何ぞ。蓋し邪にして邪なる者は、衆人喁然として之を悪むことを知る。我れ何ぞ累ねて之を悪まん。正に似て邪なる者は衆人懵然として之を悪むことを知らず。啻だ之を悪むことを知らざるのみに匪ず、随って厚く之を信ず。故に我れ特に正に似て邪なる者を悪む。

無著にとって、道元の大慧評や、正三の仁王禅、雪窓の逐旋参否定、隠元の黄檗宗などは、正しく正に似て邪なる者であった。邪と知らずに従う人が多いだけに、無著の批判は辛辣を極めるのである(3)
  松源の黒豆の法とは何か。無著はこれを文字と見、差別因縁の意とする。それは蒺藜苑一に、大慧が択木堂に遷って差別の因縁を研練したことを仏祖通載二十から引き、大慧普説四に、

地に跳出して、然る後に緩緩に宗門中の許多の公案を理会す。

とあるを引き、更に虚堂が高亭の横趨を呵し、「諸方は多く見地を説くも、鄮峯(虚堂)は只だ宗旨を論ず」、というを引き、

忠曰く、宗旨を論ずるは乃ち黒豆の法なり。

と断ずるによって明かであり、又臨済録の行録に見える有名な破夏の話の条に、特に黒豆を以て文字に比すと注し、臨済が「此事を疑って却回して夏を終う」の条に、

忠曰く、疑うて却回すと言うと雖も、然も一事の黄檗に問う可き者無し。竊かに惟るに、臨済一宗の末世に光大なるは、実に此の一疑に係る(疏瀹五)。

と注するにも窺われる。彼が黒豆の法を以て大徳妙心の禅の伝統的な源流とし、更に遡って教禅一致の玄理にまで至らんとする見通しは明確である。無著が重要な経典と語録の訓詁に心血を注いだのは、ひっきょう彼が参得底の黒豆であり、下語であった。彼の一千巻に近い写経と著述は、即ち彼の行巻であり密参であった。彼の一代は、黒豆の伝統を生きることに外ならなかったと言えないか。
  ところで、無著が護ろうとする逐旋参を、曽て厳しく斥けた人に元の雪巌祖欽があり、無著は此の意見を金鞭指街十六に引いている。即ち、

雪巌欽禅師、規上人に示す語に曰く、一大蔵教と一千七百段の陳爛葛藤と、一箇の無字下に向って透得し、刀の竹を劈くに刃を迎えて解くが如くせよ。若し逐旋して扭捏し、逐旋して合会すと曰わば、便ち箇の是有り、便ち箇の非有り。有る処は透得するも有る処は透不得にして、明かなること晧月の如く、廓なること太虚の若くならしめんと要すも三生六十劫なり。
告香普説に曰く、只だ箇の狗子無仏の話有り云云、拈出して諸人に布施す。従教あれ西咬東咬して乃至、若し是れ逐旋して参じ、逐旋して透り、逐旋して和会し、逐旋して懽喜することは、叢林に大いに人の在る有り。吾が知る所に非ず。

というのがそれであり、大陸に於ける看話の主流は、大体は全勢力を無字の公案一つに尖鋭化し、段階的な逐旋参を極力排斥するものであった(4)。しかも日本に於ける逐旋参の伝統は、その伝来の古さと我が禅林の民俗的な事情などによって、特殊な発達を遂げたもので、大陸の看話禅と余程違ったものになっていて、既に潮音の批判に見たように、中世以来の禅林の流弊は、全く救い難い所まで来ていたのである。大陸に於ける無字の尖鋭的参究と、我が国の特殊な逐旋参の伝統を綜合して、無字より難透、五位に至る独創的な公案体系を確立し、五百年間出の盛業を達成して多くの門流を出したものが、外ならぬ白隠であることはいうまでもないが、同じ歴史的課題を追求しつつ、祖述と訓詁に終始して敢えて独創の見を出さなかった所に、学問の人としての無著の本領があり、世紀に近いその生涯をただ一すじに滅後の書にかけた彼の真価は、今日にこそ問わるべき時に来ているのであるまいか。無著が常に敬意を捧げて巳まなかった洞下の独庵玄光は、彼の独語に言っている。

曹洞の禅、或は黙照の邪禅に宋代に迷陥せる者は、径山の杲大呼して顕わに之を黒山下の鬼窟裏より阿回す。而て知る者は今に至るまで其の賜を受け、知らざる者は今猶お寃と称す。臨済の禅、或は鹵莽滅裂に明世に淟汨せる者は、鼓山の賢提耳して之を誨え、之を教うるに屑めずして之を髑髏情識の中より挽く。而て知る者は以て真慈痛悲と為し、知らざる者は以て弁を好むと為すのみ。蓋し洞済の両派、形を分って気を同じうし、痛疾相い扶くる者は二師の本分なり。而も二師の傾を撐え顛を支うるの功を論ずるときは則ち釣しきも、其の労逸を論ずるときは則ち鼓山の力は之に倍す。何となれば、昔日の黙照邪禅の輩は空に沈み寂に甘じて、口を開いて声を作すも猶お今時に落ちんことを恐る。豈に敢えて是非人我を径山に争わんや。今日鹵莽滅裂の輩は則ちしからず、媚なること狐の如く猛きこと虎の如く、其の兇悪は往往にして刺客仟侠の為す所よりも出で、則ち其の歯牙誠に触るる可からず。而も鼓山は孤軍を以て八面の勍敵に抗し、其の邪鋒を折り、其の狂瀾を障隄して、祖庭を一方に全うす、是れ鼓山の力の径山に倍する所以なり(5)

独庵が推賞する鼓山玄賢は、無著もまた当代の英傑として承認した人である。大陸に於ける鼓山の活躍は、直ちに我が無著の学問に比せられてよいであろう。ただ学術の書が当代を益するよりも、より多く将来を益するものであることを信条とした無著の著述は、鼓山を始め、当時多くの英傑の書が、今日もはや歴史的意味をしか有しない中にあって、今後なお将来に生き続けるであろうことは確かと思われる。


(1)禅門法語集下巻(164ぺージ)。
(2)鈴木鉄心編「鈴木正三道人全集」(16ページ)。
(3)無著の道元や正三評そのものについては、他日「無著の禅」を論ずる時にゆずる。
(4)元明の大陸に於ける看話の消長については、別に「看話禅に於ける信と疑の問題」に私見を述べておいた(日本仏教学会年報二十八号)。
(5)独庵独語下(大正蔵八十二)。