- 敦煌本六祖壇経 一巻
- スタイン5475(正蔵48、『鳴沙余韻』102,3)
現在までに知られる唯一最古の敦煌本六祖壇経で、原名は、「南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経、六祖慧能大師於韶州大梵寺施法壇経一巻、兼受無相戒弘法弟子法海集記」。向達の「西征小記」(『唐代長安与西域文明』)に、敦煌地方の私人の有に帰せる一本があるというが、その所在は明らかでない。スタイン本の最初の発見者は矢吹慶輝で、昭和3年にすでに「大正大蔵経」に収められ、ついで鈴木大拙、宇井伯寿等の新しい校訂が加わる。この本の発見は、その後興聖寺本および元延祐高麗刻本などの新出資料の研究を導くが、この本そのものは、なにぶんにも天下の孤本であるうえに、誤字、脱字、当て字が多く、今後さらに有力な校合資料の出現を待つほかはあるまい。唐代の『六祖壇経』については、すでに円仁が承和14年(847)に上進した『入唐新求聖教目録』に「曹渓山第六祖慧能大師説見性頓教直了成仏決定無疑法宝記壇経一巻沙門人法記」とあり、無著の『六祖壇経苕帚』は、上記とまったく同じ標題をもつ高麗古刊の本について記し、その巻末に「大師俗姓盧、先天二年壬子歳滅度至宝暦二年午歳得……」とあるという。宝暦2年(826)は、円仁の入唐に先立つこと十三年である。スタイン本はその奥書に、法海−道漈−悟真の三代伝授を記すから、ほぼ九世紀中葉のものであり、円仁本や高麗本の原型に相当する。なお、敦煌本六祖壇経の英訳として、Wing-tsit Chan および Philip B. Yampolsky の二つの業績があり、いずれも独自の本文校訂を試みている。
- 興聖寺本六祖壇経 二巻
京都堀川興聖寺に伝えられた五山版の『六祖壇経』。上下二巻、十一門に分ち、版心に軍字の函号があり、宋版大蔵経の一部を覆刻したらしい。内容的には、法海−志道−彼岸−悟真−円会の五代伝授の本で、敦煌本につぐ。また、巻首に興聖寺の了然が他の本によって補った序二葉があり、依真小師慧昕が太歳丁卯(967)をもって現在の形にととのえたことと、州軍州事晁子健が紹興23年(1153)に家蔵の写本壇経をもって開版した事情を伝える。末尾に、慶長4年(1599)および8年に了然が加点した旨の後記あり、その由来を知ることができる。 → 鈴木大拙校訂『興聖寺本六祖壇経』
- 大乗寺本六祖壇経 二巻
加賀大乗寺に伝えられ、標題を『韶州曹渓山六祖師壇経』とし、末尾に「道元書」と記された写本。はじめに政和6年(1116)の福唐将軍山隆慶庵比丘存中の序あり、正受老人愛用の『正宗賛抄』にこの序文の引用があるところを見ると、他にも写本があったらしい。本文は上下二巻、十一門に分れ、興聖寺本に類似するが、上巻の終りに寧字を記すのは、やはり宋版大蔵経の字号のようである。この本について鈴木大拙は「加賀大乗寺所蔵『六祖壇経』と『一夜碧巌』について」(「支那仏教史学」1-3)を、大久保道舟は、「駒沢大学学報」8に付録して、その本文と、「大乗寺本を中心とせる六祖壇経の研究」を発表し、やがて、鈴木大拙が昭和17年に岩波書店より全文を校訂して『韶州曹渓山六祖師壇経』を出版した。
- 金沢文庫本六祖壇経(断片)
称名寺二世剣阿の写本。現存するのは、慧能の悟法伝衣の一段のうち、供奉盧珍が楞伽の変相を画く予定の壁前で、偈を呈せんとして果たさぬ神秀の心境の描写と、二人の偈の往復の一段につづいて風動幡動の話、および定慧説法の一部で、断続して八葉を残すのみの断欠本であるが、章の分け方や本文は、ほとんど興聖寺本に同じ。
- 高麗本六祖大師法宝壇経 一巻 「禅学研究」23
古筠比丘徳異が元の至元27年(1290)に校訂した本を、延祐3年(1316)に高麗で出版したもの。はじめに徳異の序があり、標題の下に門人法海集の一行があって略序に入り、本文を悟法伝衣第一より付嘱流通の十章に分ち、尾題の後に「師入塔後至開元十年……守塔沙門令韜録」の一段と、「宋大祖開国之初……至至元二十七年庚寅得五百七十八年矣」の後記あり、さらに所南翁および瑞光景瞻の延祐丙辰の跋語を付す。跋はいずれも高麗におけるこの本の伝来事情を語るもので、黒田亮の『朝鮮旧書考』によれば、朝鮮流通本はすべてこの系統によるという。
- 明蔵本六祖壇経 一巻 正蔵48、縮蔵騰4
至元28年(1291)南海風旛光孝寺の宗宝が改編したもの。行由以下十章に分ち、縁起外記、歴朝崇奉事蹟、賜謚大鑑禅師碑(柳宗元、劉禹錫)、仏衣銘を附したのちに、編者の跋がある。南蔵は密函にこの本と『古尊宿語録』の首部十二巻を収め、北蔵は扶函に『宗門統要続集』の首部九巻をあわせて収める。大日本校訂大蔵経31-1以下近代の大蔵経に収めるものは、いずれも北蔵扶函の本である。
- 正統本六祖壇経 一巻
明の正統4年(1439)、元の徳異改編の本を再版したもの。黒口刻本、曹渓原本ともよばれる。内容は高麗延祐刻本に一致するが、最後の二跋がなく、宋太祖開国之初にはじまる一段で終り、その末尾を次のように改めている。
- 六祖禅師自唐開元元年癸丑歳示寂、至大元至元二十七年庚寅歳、已得五百七十八年矣、自大元至元二十七年庚寅歳、至大明正統四年、已得六百八十年矣。時正統四年歳次己未仲秋八月中元日
- 万暦本六祖壇経 一巻
万暦甲申(1584)に、恒照斎が宗宝の本を重刻し、御製六祖法宝壇経序を加える。御製は明の成化21年(1485)に憲宗が与えたもので、現在曹渓南華寺に刻石も存する。本文は明蔵の本に同じ。
- 金陵刻経処本六祖壇経 一巻
民国18年(1929)、金陵刻経処で重刊したもの。標題に曹渓原本と記し、本文の大体はこれによるが、右の正統本とはかなり異なっている。すべての序跋を省き、章名なども改めたところがある。
『六祖壇経』の注釈は、中国では近代の丁福保のもの以外に見るべきものがないが、江戸時代以後、日本で作られたものに下記がある。
- 註法宝壇経海水一滴 五巻(「禅学大系」1)
天桂伝尊(1648−1735)の編。享保乙巳(1725)に成る。具足屋八右衛門刊行。
- 法宝壇経肯駢拇考証 五巻
緑野翁益淳序、景奭編。元禄9年(1696)に成り、翌10年刊。
- 六祖壇経箋註 一巻 無錫丁福保編
民国8年(1919)に成り、以後増補を重ねて、同58年、台北市維新書局で再版。
『六祖壇経』の欧語訳の、今までに出ているもの次のごとし(いずれも明蔵本による)。
- Sūtra Spoken by the Sixth Patriarch Wei Lang on the High Seat of the Gem of the Law, translated by Wong Mou-lam, Shanghai: Yu Ching Press, 1930.
- Sūtra Spoken by the Sixth Patriarch, edited by Dwight Goddard, in A Buddhist Bible. New York: E. P. Dutton & Co, 1938.
- The Sūtra of Wei Lang (or Hui-neng) translated from the Chinese by Wong Mou-lam, edited by Christmas Humphreys, London, Luzac and Company, 1944.
- Sūtra des Sechsten Patriarchen, E. Rousselle, Sinica Vol. V-XI 1930-1936.
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