ホーム > データベース > 禅籍データベース > 頌古・公案 > 『禅門拈頌集』


データベース  


 禅門拈頌集ぜんもんねんじゅしゅう
三十巻
高麗朝の禅僧、真覚国師慧諶(1178-1234)が門人真訓等とともに、『景徳伝灯録』その他の灯史および語録をもととして、大覚世尊以下達磨第二十一世東京天寧寺の長霊守卓の嗣、育王介諶に及ぶ仏祖の機縁一千一百二十五則を選び、これに対する古来の諸家の拈古、頌古、普説、小参等の語を付したもの。いわば、唐宋時代における禅宗の公案拈頌の集大成で、宋代に編纂された『宗門統要』と同性格の編集であるが、往々にして後者に見られぬ機縁や拈頌を含んでいる。慧諶は字を永乙、無衣子と号し、朝鮮曹渓宗の開祖普照国師智訥(1158-1210)の法嗣で、はじめ断俗寺に住し、のちに曹渓宗第二代を継いで曹渓山修禅社に入り、晋陽公の帰衣を受けて、朝鮮禅の黄金時代に活躍した第一人者である。特に、本書の完成は、貞祐十四年丙戌で、高宗の十三年(1226)に相当するが、巻末には、断俗寺住持万宗の刊記があって、本書の開版が晋陽公一家の協力に成るもので、あたかも江華遷都(高宗の十九年、1232)の後に、分司都監で再刻増補したものであることを記している。しかも、本書は初版の開版以後、非常な流行を来たしたようで、近年に至るまで数次の再刻を見(もっとも後のものとして、崇禎九丙子〈1636〉春、全羅道宝城地天山大原寺開版のものありという)、また、種々の注釈書が作られ、覚雲の『拈頌説話』三十巻、麟角寺普覚国師一然の『禅門拈頌事苑』三十巻、宝鑑国師混丘の『重編拈頌事苑』三十巻、編者不明の『禅門拈頌記』三巻、『拈頌私記』一巻などがあり、今日もなお禅門の重要学習書の一つとなっているという。しかしわが国で『禅門拈頌集』が行なわれた記録はきわめて少なく、従来はわずかに京都の建仁寺両足院、および山口の瑠璃光寺に蔵せられる古写本二部が知られるのみで、前者は寛永(1624-43)末年、後者は永正十五年(1518)の写本である。また、1966年に竜山区厚岩一洞407法宝院で、金蓮沢が雪峰鶴夢の懸吐を付して新刊した一本がある。 (禅籍解題 295)

▲page top  

 Last Update: 2002/11/01