ホーム > 研究室 > 五山文学研究室 > 関連論文 > 仙翁花 (目次) > 第1回

研究室  


五山文学研究室

関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』




【第1回】 わが国のみにある花(?)


仙翁花
拡大画像(1024 x 1280)を表示

 仙翁花せんのうけという花がある。この花のことが気になってすでに久しい。初めてこの名を見たのは、八年ばかり前になる。室町末期の妙心寺僧の詩文を集めた『葛藤集』(東京大学史料編纂所蔵の謄写本)の中であった。そののち五山僧の詩文や、室町期の日記類に目を通していると、かなり頻繁に登場することがわかった。ところが不思議なことに、江戸時代に入ると、この花が文献に登場することは、皆無というわけではないが、極端に少なくなるのである。

 いったい、どのような花なのか。まずは文献に記すところを見てみよう。たとえば、『葛藤集』に出る「祝」という僧の詩文。「祝」は五峯元祝、美濃南泉寺に住していた快川紹喜(?〜1582)の法弟で、また道祝ともいう。遷化は弘治二年丙辰(1556)であるから、十六世紀前半、室町後期に書かれたものである。(以下、いずれも原文は漢文だが、ここではこれを略す。傍点は筆者)。

古に曰く、ここに得る有れば、必ずかしこに遺す有りと。然らば則ち彼此ひし相得るは古今に難し。夫れ花中に仙翁の名有り。晋唐宋の詩人集中に寂として之れ無しけだし牡丹は花王なり。天地有りてより牡丹有り。数千百年をて即ち李唐に到り、盛名天下に聞こゆ。是に由って之を視れば、仙翁も亦た未だ相識に遇わざるか、そもそも又た其の地、本より此の花無かりしか、花有りと雖も名異なれるか。ひとたびも南遊せずんば、之を知る可からず。本朝は之に異なる。歌人之を詠じ、詩人之を賦して、前に幾千百年なるを知らず。太だ貴重するときんばいみなに触れずして花と曰うああさかんなるかな、所謂いわゆるここに得てかしこに遺す者は仙翁なるか。感嘆の余り云々。祝。
溽暑不浸塵表肌、暁紅軽発露香紅。
仙翁定有駐顔薬、一匙分我扶老衰。
大意は次のとおり。
 此の地に得ることがあれば、彼の地では必ず逸することがあるというが、彼此ともに得ることは古今まれなことであろう。仙翁という名の花があるが、中国の詩にはこの名が見えない。牡丹は花の王とされ、数千年の古くから愛され続け唐代にはもっとも盛んに愛玩された。その牡丹に比べるならば、仙翁花はそのよさを知る者がいなかったというべきか、それとも、そもそも中国にはこの花はもとからなかったものか、あるいはあっても違う名前だったのか。一度も中国に留学したことのない私には分からない。ところがわが国では、この花は歌に詠われ、詩に賦されて来た。この花は貴重されるあまり、その名を直接に呼ぶことを憚って単に「花」といわれることもある。まことに、わが国のみにあって中国にないもの、それが仙翁花である。感嘆の余り、詩一首を賦す。
 溽暑じょくしょも浸さず、塵表じんぴょうはだえ
 暁紅ぎょうこう、軽く発して露香紅なり。
 仙翁定めて駐顔の薬有らん、
 一匙、我に分かって老衰を扶けよ。
この蒸し暑さも、その世間ばなれした美しい肌を侵すことはない。朝の陽をうけて露が紅に光る。仙翁花にはきっと若返りの薬が含まれていよう。その秘薬を一匙、老いた私に分かってほしいものだ。

 駐顔は、壮年の色つやを保つことである。
 『葛藤集』に出るもう一つの詩文。作者の「森」は、柏堂景森、快川紹喜の法嗣である。

ここに一花有り、其の名を仙翁と曰う。草木飄零の日に当たって、飄零せず。緑髪紅顏、謂っつ可し、真の神仙なりと。吾が山の堂頭どうちょう和尚、一枝を折って、寄せて洪公侍史に投ぜらる。公即ち和有り。詞翰の美、見る可し。毛穎子曰く、此の花は本邦に之れ有り、中華に之れ無しと。予曰く、本邦中華の間、水遠く山長く、到って見る可からず、なんぞ之を知らんや。穎曰く、きゃっこんを動かさず、いながらにして万物を知る者は、経有り書有ればなり。古の三閭さんりょ大夫だいふ騒経そうきょうを作る、奇花異木、尽く以てこんさいせざる無きに、未だ仙翁の名有るを見ず。且つ又た神農氏、本草ほんぞうを撰す、万草千花、茂る者はなさく者、ことごとく既に尽くさざる無きに、又た未だ仙翁の名有るを聞かず。故を以て中華に此の花無きを知るのみ。予曰く、元来天地同根なり、胡為なんそれぞ本邦に之れ有りて、中華に之れ無きか。道うを見ずや、離騒りそうは梅花を忘却すと。然らば則ち仙翁も亦た忘却して之を載せざるか、亦復た聖賢秘して露わさざるか。是に於て、穎子、えりおさめて退く。蓋し仙翁の仙たる、周穆しゅうぼく王母おうぼ逢著ほうじゃくして蟠桃ばんとうを貪る、秦始しんし徐氏じょし仗憑って霊薬を求む。爾来しかっしよりこのかた、漢武の露盤、唐帝の雲車、皆な仙を学んで到らざる者なり。予は今、露盤を作らず、雲車に駕せず、直に仙翁に対す。亦た悦ばしからずや。……。森。
 紅綺顔兮翠碧肌、仙婆婥約露香吹。
 翁而年少幾千歳、愧我対花双鬢衰。

大意は次のごとし。仙翁花という花がある。草木がしおれるこの暑い季節にもしおれることなく、緑髪紅顔、神仙のような姿を見せる。わが堂頭和尚は、この花一枝を手折って(詩とともに)洪公侍史に贈られ、公はこれに和韻して、見事な詩を返された(以下は、筆を擬人化した「毛穎子」との対話)

 毛穎子がいう「この花は日本にはあるが、中国にはない」
 予いわく「はるか離れた中国に行かずして、どうしてないと分かろうか」
 毛穎子「行かずとも書を読めば分かる。屈原の『離騒』にはさまざまな花が出るが、そこにも仙翁の名は見えないし、『本草』にもこの花は出ない。これによって中国にこの花がないと知れるのだ」
 予いわく「天地同根というのに、どうして日本にはあって中国にないのであろうか。『離騒』には梅だけが忘却され含まれていないということがよく言われるが、それと同じようにこの花も忘れ去られたものか、あるいは敢えて秘したものか」
 ここで毛穎子は身を正して引き下がった。

 仙翁には「仙」の字があるが、仙道といえば、周の穆王は西王母から蟠桃をもらって食べたし、秦の始皇帝は徐福に命じて長生不死の霊薬を探させた。そして、漢の武帝は銅で承露盤を作り、天の甘露を承けて、これを飲んで仙を求め、唐の玄宗は紫雲車に乘って下降し、西王母を拝した。みな仙道を学んで長生不死を求めたが叶えられなかった。この私はいま、承露盤も作らず、雲車にも乗らないで、ただこの仙翁花を前にするだけで、長生不死が叶えられるように思う。悦ばしいことではないか。そこで詩一篇を作る。

 紅綺こうきかんばせ翠碧すいへきはだえ
 仙婆せんば婥約しゃくやくとして、露香吹く。
 翁にして年少、幾千歳ぞ、
 愧ずらくは、我れ花にむかって双鬢そうびんの衰うるを。

「緑髪紅顔」は、若々しい少年の容姿をいうが、五山では美しい喝食の容貌を表現するのにも用いられる。また、屈原(三閭大夫)の『楚辞』の中の「離騒」では多くの花が詠われるが、そこに梅花が含まれていないということは、五山でしきりに詠われたテーマである。「楚辞に梅なく万葉に菊なし」という諺もあるし、後水尾帝御詠に「ならのはのえらみにもれし菊の花、残れる梅の恨みやはある」というのも、この消息を言う。

 詩の第一句の「紅綺顔兮翠碧肌」は仙翁花の鮮烈な美しさを少年喝食かっしきの容姿に重ねあわせたものである。美貌の喝食に、さまざまな季節の花を詩とともに贈る例が多くあることは次回に見るが、こうした風習は五山における一特徴で、仙翁花もそうした贈答花のひとつである。

 いまこの花を贈られた洪公侍史という人は既に喝食の年齢を過ぎて、いまは侍者をしている人であり、十六〜二十歳である可能性が高い。喝食はおよそ十五歳になると剃髪して僧となり、侍史・侍薬などという侍者僧になることが一般だからである。仙婆は仙女。「婆」は必ずしも老女とは限らない、ここでは、仙翁花の美麗を、美しい(婥約)仙女になぞらえたものである。

 仙翁という名でありながら、その若々しい姿、いったい、何千歳なのだろうか。花に向かう私の双鬢が白くなった老いの姿を恥じるばかりである(願わくば、仙翁の永遠の若さにあやかりたいものだ)

 『葛藤集』に出るもう一つの詩文。熱田龍珠寺の開山である南溟紹化の作。

ここに仙翁一有り。誠に是れ蓬莱ほうらいの仙種な り。今載ことし夏五かごに当たって、たちまち開け り。蓋し予が封殖するところ なり。よって以て之をじて、蓬左ほうさ瀧坊たきのぼう郢堂えいどうの下に投じて、他日、和歌の撃節げきせつと為す者か。 南溟。
 一朶の仙翁、郢堂に投ず、
 紅霞簇簇ぞくぞく、露滾滾とうとう
 此の花、写して和歌の曲に入らば、
 宜しく蓬山にむかって、夏日長かるべし。

「予が封殖するところ」とあるから、南溟が熱田神宮にほど近い自坊で培養していた仙翁花が、いま五月に花開いたというのである。仙翁花は自生ではなく、人工的に栽培されていたことが窺える。

 さて、以上三つの詩文から分かることは、仙翁花は、

  1. 中国にはなく、本邦にのみあると信じられていた。
  2. 長生不老の仙花とされていた。
  3. 培養されていた。
  4. (他の花と同じように)贈答花として用いられていた。
  5. この花を題材に詩歌の会が開かれていた。
  6. 直接に名を呼ぶのを諱んで、単に「花」とも呼ばれた。
  7. 喝食や仙女の容姿になぞらえることがある。

初出『季刊 禅文化 185号』(禅文化研究所、2002年)

ContentsNext
▲page top  

 Last Update: 2003/07/13