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五山文学研究室

関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』




【第2回】 諸文献に出る仙翁花せんのうけ

 「緑髪紅顔」「紅霞簇々露滾々」という形容があったが、いったいどんな花が咲くのか、その実物が見たいものだと思って、植物事典などで探したり、知人・友人に逢うごとに尋ねたのだが、なかなか見つからない。たいていはマツモト・センノーとかフシグロ・センノーとかいうのを教えられたのだが、マツモト・センノーは園芸種であり、かなり種類が豊富にあるし、フシグロ・センノーはだいだい色の花をつける山野草で、日本各地の山野で普通によく見られる。茶花としても広く愛好されているので、夏になれば花屋の店頭で見ることができる。しかし、仙翁花はこれとはちがう花である。

 古くから、京都嵯峨から出たものとする説がある。『下学集』(1444年)に「仙翁花。嵯峨仙翁寺、始めて此の花を出だす、故に仙翁花と云う」。また『大和本草綱目』(1708)にも「センヲウハ嵯峨ノ仙翁寺ヨリ出タルユヘ名ツクト云。仙翁寺今ハナシ」とする。

 『日本国語大辞典』「せんのう」の項には次のように記す、

ナデシコ科の多年草。中国原産で、古くから鑑賞用に庭園に栽培されている。茎は高さ六十センチメートルぐらいになり葉とともに細毛を密に生じる。葉は長さ五センチメートルぐらいの卵形で対生。夏から秋にかけ径四センチメートルほどの深紅色(まれに白色)の五弁花をまばらに開く。花弁の先は不規則に細裂している。漢名、剪紅紗花。剪秋羅も用いるが、漢名ではない。
シーボルト『日本植物誌』

『日葡辞書』(1603年)には「発音する時は、Xennôqe と言う」とあるから、センノウケと清音で呼ばれていたのである。各種の植物事典が記すところもほぼ同様だが、学名は、Lychnis senno Sieb.et Zucc. という。たいまつの炎のような花ということらしい。江戸末期に日本に滞在したシーボルトが標本を持ち帰り、彼の地で命名されたものという。

 室町の文献では中国にはないとしていたが、実は中国原産の植物なのである。したがって、いずれかの時に日本に渡ったということになる。寺島良安の『和漢三才図会』巻九十四(1713)には、

剪紅羅……五鳳集に云く、吾が邦に一種の奇花有り。毎歳六七月を以て紅を著く。之を仙翁と謂う。世に伝う、嵯峨仙翁寺より出づる所なりと。大唐詩文の中、花を論ずること甚だ夥し。未だ此の名の有るを聞かず。蓋し此の仙翁花は乃ち剪紅羅なり。僧奝然、種を中国より取得して来たものか。以下略。

という。五鳳集というのは五山僧の詩文を集めた『翰林五鳳集』のことであるが、右の文は巻六十二の恋部に出る。

 奝然(938〜1016)の将来ということになれば、そうとうに古いことになる。けれども、現在報告されているかぎりで、もっとも古く仙翁花が文献に登場するのは、『愚管記』(『後深心院関白記』)の永和四年(1378)八月三日の条に出る次の記事である。

二条宰相来、有続哥興。披講之時分、日野大納言来、詠物名各一首。せにをうくゑ、宰相書題。庭前有此花、今日賞之。近来出来花也。尤有興。愚詠如此。しつかすむ里のつゝきそかせにほうくゑかきにそふ梅の一木に。

「庭前有此花」とあるから、やはり庭で培養されていたのである。そして「近来出来花也」とあるから、このころ(1376)出始めたということになる。「尤有興」の三字に、当時の人のある種の新鮮な驚きのようなものが感じられる。

 植物学の北村四郎氏は、この『愚管記』の記事を引いて「奝然説はあとからこじつけたのであろう」と疑問視しているが(保育社『北村四郎選集』一、『落葉』192頁)、筆者も同感である。『愚管記』よりすでに三百年以上も前に将来していたのであれば、もっと文献に現れているだろうし、その由来も他の文献に見えてもいいはずである。

 連歌師の猪苗代兼載(1452〜1510)の『兼載雜談』(群書類従、正299、16、534頁)では「仙翁花は等持院尊氏将軍の御代に、京の千本よりはじめて生出たる花なり。唐にはなし」とする。尊氏将軍の御代だから、1338年〜1358年ころに出始めたというのである。また、この書では嵯峨発祥説とは異なることを記している。

初出『季刊 禅文化 185号』(禅文化研究所、2002年)

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 Last Update: 2003/07/13