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研究報告

研究報告 第5冊 沖本克己「禪思想形成史の研究」


  緒言

 禅学研究の本来的意義が、坐禅用心して自己を研磨究明するにあることは、言うを俟たない。いわゆる禅学が、近代以来の諸科学に伍して、その客観性あるいは実証性のみを基準として進められるならば、不立文字、教外別伝を標榜する禅宗と、なんら関係のない世俗の学と堕するほかはない。そして事実、禅学の今日的趨勢がそういう方向へ傾斜しつつあることは、心ある宗門識者の共通して憂慮するところである。

 今日、欧米における東洋学研究者の多くが、学問研究の時間を惜しみつつも、坐禅を行じている現実を知るとき、われわれは深い反省に曝されざるをえない。明治以来、この國の仏教学研究が宗門を離れ、それ自体として著しい発展を見せた積極的理由が、西洋の学問的方法に触発されてのことであったことは事実であろうが、より正確には、宗門の学問軽視に対する世俗の批判としてであったこともまた否みがたいであろう。無著道忠や白隠慧鶴ら近世の禅者たちが、いかに日夜仏祖の経録をもって古鏡照心せられたか、また如何に深い学殖をその胸深に湛えられていたかを知るとき、不立文字を標榜する禅門にも、なお欠くべからざる学得底の一面あることを思い知らされる。

 本学国際禅学研究所の開設が、そういう禅学の今日的危機意識によってなされたことを、開設後十年を迎えたいま改めて思い返す時がきている。しかもまた、開所いらい欧米諸国や東アジア諸国からこの研究所を訪れてくる禅学研究者が、日とともに増しつつある現実を前にするとき、本研究所の使命がわれわれの所期のそれを遙かに超えるものであったことも、あわせて自覚せしめられるのである。

 そういう状況のなかで、このたび本学仏教学部教授沖本克己所員の研究報告を公にすることができたことは、慶ばしきかぎりである。

 沖本所員の研究は、もと東京大学において習得した初期大乗仏教研究の方法に基づくものであるが、その関心は次第にチベット語仏典や敦煌文献を中心とする禅籍研究へと広がり、やがてそれらを統合する形で初期禅宗成立の過程を洗い直す作業へと収斂して、本学における禅学研究の本来的立場へと同化していったようにみえる。

 己事究明の行道なるがゆえに、特定の創唱者や固定した思想に追随しないところにこそ、その固有の意義をもった筈の禅定修行者集団が、何故に、またどのような経過を辿って禅宗という一宗一派を形成するに至ったか、その秘められた過程を、敦煌文献や高僧伝を丹念に詮索することによって辿りなおそうとするのが本研究の狙いの一つである。

 報告内容は多岐にわたるが、たとえば氏が敦煌文献に散見せられる偽経の存在に着目していることも、そういう研究の意図を具体的に示しているよき例であろう。本来は非仏説である偽経は、正統な仏教学からは学の対象から除外されやすい。しかし、あらゆる宗教において、宗教文献の多くが信奉者たちの熱い信仰告白の記録であり、それこそが教団を成立せしめる重要な契機となっていることは一般に認められている。それらは多くの場合教祖の意図と大きく乖離することになるが、そこにはかえって見逃すことのできない信奉者の熱い信仰が漲っているのであり、禅宗関係の偽経も、インド的拘束から独立して一宗を作り上げようとするシナ的運動のよりリアルなドキュメントにほかならないのである。

 最後に氏の研究もまた、祗に実証性のみを好しとする従来の歴史的研究にとどまらず、歴史的文献を読む視座に氏の熱い思想を投入している。そこには氏の禅宗に対する主体的確信があって、それが先人の研究をも超える氏の学問的自由を支えているように見える。若き日より参禅に親しみ、ついに不惑にして禅門に籍を移した氏ならではの、学問研究の、自然なありようというものであろう。江湖道友に一顧を薦めるゆえんである。

  平成九年 春彼岸

國際禪學研究所所長 西村惠信 三余居にて識す  

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 Last Update: 2003/06/20