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研究報告 第5冊 沖本克己「禪思想形成史の研究」 |
序論
(1) はじめに あらゆる人の営みは「生住異滅」という四相の変化を辿って転変し、反復されるというのが仏教のもっとも基本的な視点の一つである。この生態的な認識をシナ仏教史に応用するならば、発生(伝播)したものを受容する時期、それを咀嚼して理解を深める時期、そして既に十分に蓄積された伝来思想の円熟をまってそれをシナ的に変容させる時期、それらが細かい変化を受けながら持続する時期、そして崩壊に至る時期、とに分けることができるであろう。そしてそれぞれの時期の中にはさらに様々な屈折が織り込まれている。 これらの変容を順に第一期から第五期として時代にあてはめるならば、第一期は前漢の伝播から東晋はじめの所謂格義仏教のころに当たり、第二期はそれから南北朝時代の研究期、第三期は隋唐のシナ仏教形成期に当たるであろう。唐の時代はさらに初唐(618-709)、盛唐(710-765)、中唐(766-835)、晩唐(836-907)に分かたれ、中唐以降、宋代に至る期間を第四期実践時代、第五期を元明清の継承時代と見ることが出来るであろう[常盤支那 pp.1-70]。 シナ禅宗の生成の過程はこのうちの第三期にほぼ含まれその時期を代表する出来事のひとつでもあるが、そのうちにも発生から成長、持続、衰退に到る生態的変化が見られる。しかしそれらの運動もまた、宗派の萌芽以前からの長いシナ仏教あるいはさらにインド仏教の変容の経過に深くかかわる出来事であった。新たに生まれた思想や実践の体系が如何に特異な理論や形態を持つものであろうとも、それ以前の歴史、あるいはそれぞれの時代精神や風土と無縁に成立することは有り得ないのである。 さて、そうした視点からシナの初期禅宗史を捉えかえすならば、シナ禅宗がその成立初期にあっては、様々な宗派や教学体系と密接な交渉を持ってその影響を受け、それらとの融合や対決を経て独自の実践思想を確立して行ったことに気がつく。 例えば華厳宗第四祖とされ禅宗とも深い関係をもつ清涼澄観(738-839)について『宋高僧伝』巻五には彼の各宗兼学の様子を語るのに多くのスペースを割いている。今、それを一瞥すれば次の如くである。 乾元中、潤州に棲霞寺醴律師に依りて【相部律】を学す。本州に曇一に依り【南山律】に隷う。金陵玄璧法師に詣で【関河三論】を伝う。三論の江表に盛なるは観の力なり。大暦中、瓦棺寺に就きて【起信涅槃】を伝う。又た准南法蔵に【海東起信疏義】を受く。却って復た天竺詵法師の門に【華厳大経】を温習す。七年、剡渓に往き、成都慧量法師に従い【三論】を覆尋す。十年、蘇州に就き、湛然法師に従いて【天台止観】【法華維摩等経疏】を習う。解は上智よりし、性は自ら天然。所学の文は、昨に抛捨せる鮑静の井を記すが如し。蔡邑の後身なること、信に知る可し。又た牛頭山忠師、径山欽師、洛陽無名師に謁し、【南宗禅法】を咨決す。復た慧雲禅師に見え、【北宗玄理】を了ず。……【経伝】【子史】【小学】【蒼雅】【天竺悉曇】【諸部異執】【四囲五明】【秘呪】【儀軌】を習し、篇頌筆語書蹤に至るまで、一に皆、博綜す。多能の性、天よりこれを縦されたり(1)。ここに【】に括ったものが賛寧によって認められた彼の修学の経緯である。もってその多彩な思想遍歴の一端がうかがえるであろう[鎌田華厳 p.169ff.]。しかし、こうした修行態度は澄観一人に限られたことではなく、この時代に到るシナの学僧達の多くに共通した傾向であったしそのことは多くの禅僧達にとっても例外的な事柄ではなかったのである。そしてシナ仏教自体もその長い歴史の中で独自の宗派を成立させたが、初期には宗派間やそれぞれの修行者の間では孤立や深刻な対立は見られず、むしろ積極的な交流が行なわれるのが一般だったのである。 遡って、曇遷(542-607)の活躍によって、各地に散在した仏教各派は都市に集結して統合の方向に向かい、教宗と禅宗とは共に再び活性化を果たしたのだが、いずれの場合も一流の僧侶達は学僧であれ実践家であれその基礎的素養として大いなる総合性を持っていたことが知られている[西明寺 p.85ff.]。旗幟を明らかにして一つの立場をとるよりも交流の中で各宗を兼習して幅広い知識を持つことが教学研究時代にはより秀れたことと認められていたのである。このことは禅僧といえども例外ではない。 例えば天台宗との交渉については、既に関口真大氏の精緻な研究があり[関口止観 p.206ff.]、最近では山内舜雄氏の労作がある[山内天台 p.273ff.]。我々はそれによって大きな学恩に浴することができるし、また華厳宗と禅宗の両者の関係についても秀れた先駆的業績がある(2)。 更に三論宗と禅宗との相関について平井俊栄氏をはじめとする諸学者の幅広い研究の蓄積があり[平井般若 p.323ff.]、禅宗と教の各宗との関連についての主要な資料と研究の成果は既に出揃っているといってよい。 一方、禅宗初祖とされる菩提達摩の渡来前後の実践家たちの動向については水野弘元氏[水野禅宗 p.15ff.]、古田紹欽氏の研究があり[古田達摩 p.15ff.]、そこで明らかにされた宗派的混淆状態については更に様々な方面から考察が加えられねばならないが、禅宗もまたその成立初期には旺盛な教学的・兼修的態度を示していたのである。。 こうした多彩な動きを経て禅宗が実質的に成立したのは馬祖道一(709-788)が南岳を下って洪州開元寺に居した時点に求められるとするのが定説である。それを証する客観的材料としては、灯史の確定、語録の作製および清規の制定を挙げることが出来る(3)。これらのテキストの確立はまた禅宗独自の三宝の形成といってよいできごとであった。 いま仮に、宗派の立宗根拠を組織的な教理思想の体系として捉え、その宗派の特異性を示し、かつ宗派において実現されるべき目標、およびそのための修業方法等の関連事項を示すもの、と解するならばここに到ってはすでに教理思想は形而上学や具体的修業方法で語られることはほどんどないのが注目される。 却ってその語り口は平俗化し、接化の手段は全て日常底の様々な具体的営為の中に求められた。修行もまた日常生活を遊離してはあり得ぬとするところにこそ禅宗の特徴があるというべきである。 例えば、確かに禅宗にとって法系思想は立宗の根拠となるものではあるが[禅史仏 p.411ff.]、ただしこれは歴史的な事実を後にある意図の下に再構成し整備することによって確立されたものであり、実際には法系にも頓着せぬ禅僧たちの現実の相互の干渉が却って禅宗の活発な展開を特徴づける働きを有していたし、従来の経典の位置にとって変るべき性格をもつ語録も体系的な思想を語るものではなく叢林の規範である清規も時間と場所に依って様々な変容を蒙っているのである。 もともと言語表現による論理体系への不信を動機として始まった禅宗は盛期に至ってますますその傾向を強め、そこにはもはや規範となる教学体系は見られず、個々別々にたえず躍動する言説と所行があるのみであった。 それでは禅宗とはいったい何であるのか。そこに何らかの共通性や、はるかに常軌を逸脱しつつなお仏教であることを保証するものはあるのであろうか。ここではこうした課題に応えるために、従来の伝統的な思想史的な論証方法とはいささか異なった観察手段をとってみたいと思う。 ところで、仏教史を通覧すると禅宗という言葉も一概には規定し得ないことに気づく。そこでまず始めに禅宗という言葉の概念規定をしておきたいと思う。 禅定は仏教の他の様々な基本思想と同じくインドに於ける古くからの慣習や思想をとりいれ、そこに新たな意義を付与しつつ体系化しなおしたもので、仏教内部においてもさまざまに展開した概念である。禅定の具体的実践法や禅定の深化の諸段階とその証果、また他の教理思想との関係などについてさまざまな解釈がうまれ、複雑な思想的分岐が観察される。これらの様々な分類や規定はいずれもそれぞれの部派、あるいは経・論の立場や世界観にもとづき、かつそれに対応するものであるといってよいだろう。 ではその禅定を宗旨とする宗派つまり禅宗とはいったい何であるのか。始めにその原義を尋ねるならばシナ仏教史の中にあっても「禅宗」という語義は特異な経過を持っている。まず盛んに使われ始めるのは管見する所、北魏仏教のころからである。即ち、『続高僧伝』慧思章に、 江東の仏法は教義部門を偏重し、禅法に至ってはまったく軽視していた。慧思はこの南方の習慣を慨嘆して、定慧を双つながら重んじ、昼は理義を談じて夜は瞑想に耽った。故に発する所の言は、大いに影響を与えた。それによれば、定に因って慧を発するという。この旨は、真に尤もである。南北の禅宗は、この影響下にないものはない(4)。とあるのが知られるうちで最も古いものかと思われる。この南岳慧思の系譜すなわち後の天台宗が禅宗と呼ばれていたのは釈法顕伝によっても知ることが出来る。 衆生はすべて初地の禅を体得している。時が来れば則ち悟りの知恵を発するだろう。心にその可能性を蔵してそれが無くなることはない。顗禅師なる者があって、荊楚の禅宗を標榜している。行って師事したいと思う(5)。なお、この法顕は道信の弟子にもなっており[T.50,599c]、禅宗と天台宗の密接な交流を裏付ける存在の一人である。次に同じく釈保恭伝に次のようにいう。 陳の至徳初(583年)、摂山慧布は北鄴から初めて還り禅府を開こうとし、ねんごろにお迎えして修行者たちを整えた。保恭は慧布の招きに応じてその任につき、綱領や規則を樹立して禅の修行者(禅宗)を指導した。それで栖霞寺では、道風は栄え、今に至るも師を称えて詠歌することが絶えない(6)。ここにいう禅宗とは実践を旨とする修行者たちのことである(7)。 『続高僧伝』には他にも禅衆、坐禅衆などの用例がみられ(8)、これらは動乱の中にあった西域を経て洛陽に集結した実践家およびその系統に属する人たちを総称する一般名詞であったことが知られている。 後に見るように、隋文帝の開皇七年(587)、勅によって大興善寺に五衆の制がひかれた。これが後の教学系統の諸宗派の形成につながっていくのであるが、実践の方面では、仁寿三年(603)の勅によって、大禅定寺に禅師を集めて、僧稠以後途絶えていた禅門を再興した。 稠師の滅後より、禅門は開かぬままである。戒の実践と慧学は何とか再興したが、これでは行儀が欠けたままである。そこで、寺を建てて禅定寺と名づけ、昔の伝統を嗣ぐことを望むのである。宜しく海内に名徳の禅師百二十人に、各々二侍者をつけて召集せよ。このすべてを曇遷禅師に委ねて捜揚させた(9)。彼等もまた、教の五衆に対して禅衆、あるいは禅宗とよばれていたのであるが[平井般若 p.46]、ここにおいても、 開皇十二年、勅があって三学の業に長じた者を捜索し選ばせた。海内に教化を行き渡らせ、禅府を崇んだ。二十五人を選んで、その中で、行解に優れた者を、その長とさせた。域内に勅して別に五衆を置いた。[T.50,580a](10)とある如く、三学に秀れ、行と解に通じた者が禅師と称されていたのである[関口発生 p.323]。実際、教の五衆と禅衆はその人材に共通する者が多く、一般的には大興善寺で講学ののち大禅定寺に移って実践を専らにするのを通例としている。即ちここでは行と解の分離は見られないのである。 しかし、例えば天台智顗(538-597)の『摩訶止観』に、 暗証の禅師、誦文の法師の能く知る所に非ざる也。[T.46,52b]あるいは、 一種の禅師、唯だ観心の一意のみ有り。或は浅く、或は偽なり。[T.46,98a]とあるごとく、「暗証の禅師」といわれる実践的修行一本槍の人々も既にひとつの勢力となってきていたことが知られる。そして、このことに明らかなごとく、智顗においては、坐禅と智恵との関わりが重視され、更に深められていくのである。今この点については深入りしないが、ここでも自らの立場に共通する人々、およびそれに反する実践家のそれぞれのグループが禅師、禅宗と称されていたわけで、通じて実践家の総称であり特定のグループを指すものではなかったのである。 こんにち禅宗といえばいわゆる達摩系の宗派をさすのが一般であるが、この系統で禅宗という言葉が用いられるのは比較的のちのことでしかない。その用例を探ると、従来「禅宗」の初出は北宗に属するとされる摩訶衍の『頓悟大乗正理決』であるとされている[柳田初期 p.454]。しかしテキストの成立年代は下るが『祖堂集』巻三、慧忠国師章にもこの語は見え(11)、また『馬祖語録』および『塔銘』にも禅宗という言葉が自覚的に用いられている。これは時代からいえば摩訶衍に先行するが、テキストの成立が新しいため、保留されているものである。それによれば『馬祖語録』に、 有る講僧、来たりて問うて曰く、未審し禅宗は何の法をか伝持する。(12)といい、『塔銘』に、 鍾陵之西は海昏と曰う。海昏の南鄙に石門山有り。禅宗大師馬氏の塔廟の所在なり。(13)とあるのがそれである。 いわゆる南宗は馬祖に至って確立するのだが、その成立過程においては教理的色彩もなお濃厚に保存していた[沖本馬祖 p.41]。しかし、たとえば『六祖壇経』に、 私のこの法門は定慧を以て本とする。みなさんは迷って定と慧は別であると言ってはならない。定慧は一体であって二つのものではない。定は慧の本質であり、慧は定の働きである。即ち慧の立場に立てば、定は慧の内に在り、即ち定の立場に立てば、慧は定の内に在る。もしこのことを識れば、即ち定慧は等しく修せられる。[T.48,352c](14)とあるごとく、既に坐禅あるいは禅定も実践の一形態としての具体的な坐禅の意味を持たなくなっており、行住坐臥のすべてを包含するむしろシンボリックな用法に展開していくのである。また、馬祖の時代に至って、そうした宗旨をもつ実践家たちから成る特定のセクトをさすことも明瞭になってくるのである。 しかしここでもなお、教団的な固定観念は希薄で、教団の確立は唐末から宋にいたる時代の現象であり、たとえば臨済宗という呼称も臨済本人とは関係がないのである。 以上のことをまとめるならば、禅宗史とは教学的なカテゴリーを離れ坐禅さえも特定の実践方法とは認めなくなる過程そのものであると言ってよい。それゆえ盛期の禅宗には語録という形で異なった個性をあらわにする個々の具体的言辞があるばかりで、そこには体系的な思弁も実践の方法論も見かけることがない。またそれぞれの家風も相互に相違していていずれも極めて個性的である。従ってこれらを抽象して何らかの教理思想を取り出すことは却って不可能であり無意味な作業でさえあるということに成らざるを得ないのである。 かくて、禅宗史にあっては禅宗という概念の内容の相違それ自体が常に大きな課題であり、時間空間に応じてその概念規定に顧慮しつつ多様な展開をそれ自体として観察する必要が生じるのである。そしてその個別の考察そのものが禅宗における思想史研究の大きな課題となるのである。いいかえれば単純な概念の発展・展開史としての禅宗の歴史を 捉えようとすることは方法的にも不十分であり、複眼的な視座をもってそれらの複雑な展開を正確に記述し理解することが必要なのである。 そのことを出発点として、ここでは初期の禅宗の成立過程、あるいは禅宗成立以前の実践仏教の系譜の中でそれが如何なる変化の様相を示していたかについていささか思想史的な吟味を加えて見たいと思う。 |
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