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『続高僧伝』興聖寺本について:解説 (沖本 克己)




■習禪編について

 今、その習禅編を見るならば、巻十六から巻二十までの五巻からなり、末尾には習禅編の総論が置かれる整然とした形になっている。内容を比較すると、既に緒方氏の一覧表に詳しいが、藤善氏が指摘するように、巻十六の「後梁荊州覆船山釋法常傳、後梁荊州長沙寺釋法京傳、後梁荊州玉泉山釋法懍傳、後梁荊州支江禪慧寺釋惠成傳、後梁荊州玉泉山釋法忍傳」など、および現大正大蔵経本にいう巻二五(習禪六)および巻二六(習禪六之餘)は存在しないが、他はほぼ現本に一致している(3)

 他編と比較すると、「感通編」が三十九人増補されているのに続いて二十六人の増補であり、この両編だけが飛び抜けて多いことがわかる。これのみをもってしても、七世紀中葉のシナ仏教界の激しい変化の様相の一端を知る手がかりとすることができるであろう。

 今、試みに『續高僧傳』習禅編に列伝される禅師の卒年を調査してみると、おおむね生卒年順に並べられており、興聖寺本の習禅編最終巻に当たる巻二十で比較的遅いのは、 慧斌(574‐645)(591b‐c)、曇韻(641)(592c‐593b)、慧思(642)(593b‐c)、慧煕(645)(594c‐595a)、智聡(648)(595a‐b)等であり、生卒年不詳の僧徹を最末尾とする。智聡は没年が六四八年であるから、先の藤善氏の推論はここでも妥当である。

 そしてそのあとに習禅編の総論がつづく。このことは、興聖寺本巻二十も既に加筆された結果であること、その修正は時間を遡って古い部分すなわち初稿本の内容にも及んでいたことが証明される。

 なお、大正大蔵経では巻第二十五、二十六とされる「習禪編六、六之餘」を検討して見ると、列伝される各禅師の卒年は以下の如くである(T.50,597.ff.)

『續高僧傳』巻二五(T.50,597c,ff.)。
 唐鄧州寧國寺釋惠祥傳一(616)
 京師大莊嚴寺釋曇倫傳二(626)
 蒲州仁壽寺釋普明傳三(667?)
 蒲州柏梯寺釋曇獻傳四(641)
 秦州永寧寺釋無礙傳五(645)
 江州東林寺釋道暀傳六(628)
 荊州四層寺釋法顯傳七(653)
 荊州神山寺釋玄爽傳八(658)
 蒲州救苦寺釋惠仙傳九(655)
 益州淨惠寺釋惠寬傳十(653)
 衛州霖落泉釋僧倫傳十一(649)
 京師西明寺釋靜之傳十二(660)
 丹陽沙門釋智巖傳十三(654)
『續高僧傳』巻二六(T.50,602c,ff.)
 唐衡岳沙門釋善伏傳十四(660)
 代州照果寺釋解脱傳十五(650-656)
 潤州牛頭沙門釋法融傳十六(657)
 衛州霖落泉釋惠方傳十七(647)
 揚州海陵正見寺釋法嚮傳十八(630)
 蘄州雙峰山釋道信傳十九(651)
 江漢沙門釋惠明傳二十(?)

 即ち、初稿本から興聖寺本に至る四年の間の増補の様相は初稿本が発見されぬ現時点では知る手がかりを持たないが、「習禪編六、六之餘」は興聖寺本以後の増補であること、増補は初稿本完成より後の僧侶だけではなく、それ以前に没した高僧の事歴にも遡って行なわれていたことがここからも知られるから、上の推測を補強することになる。従って、興聖寺本においても全体が書き改められ、かつ加筆されていたことは確実なのである。

 なお、普明の詳細は分からぬが、禅定寺に入ったのが大業六年(610)で三十才もしくはそれを少し過ぎた時であったから、八十六才で没したのを逆算するともっとも遅くて667年となるから、これは道宣の没年に当たる。没するぎりぎりまで増補に努めていたことが知られるのである。

 以上のことを前提として、主として興聖寺本習禅編の紹介を兼ねていくつかの問題を論じておきたい。



【注】

  1. 「『續高僧傳』玄奘傳の成立 ― 新発見の興聖寺本をめぐって」鷹陵史學第五號、仏教大学、1979, pp.65-90、および緒方氏による「基礎資料対照表」参照のこと。

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 Last Update: 2003/10/09