ホーム > 研究室 > 禅宗史研究室 > 『続高僧伝』興聖寺本 > 解説(目次) > 菩提達摩の顕彰


研究室  


禅宗史研究室

『続高僧伝』興聖寺本について:解説 (沖本 克己)




■菩提達摩の顕彰

 まず、菩提達摩や慧可に関するもっとも古い記録の一つとして信頼性の高い『續高僧傳』の記事も道宣の加筆部分即ち645年から667年のものが含まれている可能性も高いのだが、そのことは達摩や慧可伝等にまで及んでいるのかどうかが差し当たっての関心である。

 興聖寺本を見る限り、巻二十までの習禅編一から五は現大正大蔵経本とは上に指摘した欠落部以外についてはほとんど変わるところがない。しかし、「総論」に記される菩提達摩顕彰記事の部分や後に見る慧可章は矛盾的要素を含んでいる。今その問題点をあげると次の如くである。

つづいて菩提達摩なる者有り。神化もて宗に居し江洛を闡導す。大乘壁觀、功業最も高し。在世の學流、歸仰すること市の如し。然而るに誦語は窮め難く、厲精するもの蓋し少なし。其の慕則を審にするに、遣蕩の志存せり。其の立言を觀るに、則ち罪福の宗、兩つながら捨す。詳らかにするに夫れ、真俗の雙翼、空有の二輪、帝網の拘らざる所にして、愛見は之を能く引く莫し。靜慮は此を籌る。故に絶言せり。然而るに彼の兩宗を觀るに、即ち乘の二軌なり。稠は念處を懷き、清範崇ぶ可し。摩の法は虚宗にして玄旨幽賾なり。崇ぶ可きは則ち情事顯れ易し。幽賾則ち理性通り難し。所以に物もて其の筌を得るは、初め披洗するに同じく、心用に至りては壅滯惟れ繁しと云う。之れ差を得るは述し難し。
屬有菩提達摩者。神化居宗闡導江洛。大乘壁觀功業最高。在世學流歸仰如市。然而誦語難窮。厲精蓋少。審其情慕。則遣蕩之志存焉。觀其立言。則罪福之宗兩捨。詳夫。真俗雙翼。空有二輪。帝網之所不拘。愛見莫之能引。靜慮籌此。故絶言乎。而觀彼兩宗。即乘之二軌也。稠懷念處清範可崇。摩法虚宗玄旨幽賾。可崇則情事易顯。幽賾則理性難通。所以物得其筌。初同披洗。至於心用壅滯惟繁云。之得差難述矣。(T.50,596c)

 多少の文字の出入りがあるが、ここでは興聖寺本に従った。詳しい校定は省略する。冒頭の「神化宗」も「神化宗」ではないかと疑われるが、興聖寺本に従って今はそのままにしておく。

 ここに表現される達摩の禅法は『二入四行論』の内容に従ったものであり、この達摩と僧稠(4)との両者を「乘之二軌」として高く評価する。そして両者は禅法を異にするが、甲乙をつけ難いというのである。そして、ここにいう、「大乘壁觀功業最高」の言葉が達摩禅へのお墨付きとなって以後の禅宗史の主流となっていくのである。

 しかし、冒頭にある「屬」とは何を意味するのか。実はその直前の部分には次のような記事がある。

高齊の河北、獨り僧稠を盛んなりとし、周氏の關中、僧實を尊登す。寶重の冠は方駕して神道の通ずる所を澄安し、強禦を制伏せり。宣帝、擔負して府藏を雲門に傾け、家宰、階を降りて歸心を福寺に展べ令むるを致す。誠に圖有り。故に中原の定苑をして綱領を剖開せしむ。惟だ此の二賢、踵を接し燈を傳え化を流して歇むこと靡し。而して復た林野に委辭して天門に歸宴す。斯れ則ち大隱の前蹤を挾み、無縁の高志を捨つる耳。終に復た身を龍岫に宅せり。故に是の行藏、儀雅有り。
高齊河北獨盛僧稠。周氏關中尊登僧實。寶重之冠方駕澄安神道所通制伏強禦。致令宣帝擔負傾府藏於雲門。家宰降階展歸心於福寺。誠有圖矣。故使中原定苑剖開綱領。惟此二賢。接踵傳燈流化靡歇。而復委辭林野歸宴天門。斯則挾大隱之前蹤。捨無縁之高志耳終復宅身龍岫。故是行藏有儀雅。(T.50,596bc)

 即ち、ここでは僧稠(480‐560)と僧實(476‐563)とが南北の禅宗を代表する二賢として尊崇を集めていたというのである。ここに宣帝とは僧稠のために天保二年に雲門寺を建てた北斉文宣帝(550‐559在位)である(T.50,554b)

 それにも拘らず、達摩を賞賛する記事が続くことによって、文脈に混乱が生じている。即ち、一見して分かる通り、後者の記事では同時代人である僧實と僧稠を対比させ、両者をもってシナの禅界を南北に分かつ巨人として描写するのであるが、前者の記事では僧稠も達摩も共に北地の人物であり、「高齊の河北、獨り僧稠を盛んなりとす」と記したにも拘らずここでは禅風の違いに力点を置いて併置し、地理的な対比や先の評価は無視されてしまっているのである。

 しかも、「総論」の末尾には、

所以に思遠は清風を振るい、稠實は華望を標せり。厥の後寄にのこせる、其の源、尋ぬ可し。斯れ並びに古人の同じく録せる所にして、豈に虚ならん哉。
所以思遠振於清風。稠實標於華望。貽厥後寄其源可尋。斯並古人之所同録。豈虚也哉。(T,50,597b)

とある。ここに「思遠」とは南岳慧思(515‐577)、浄影寺慧遠(523‐592)であり、「稠實」とは先に対置された僧稠と僧實である。これによって、達摩の評伝が初稿完成後の附加に過ぎぬことが改めて暴露されているといっていいだろう。達摩およびその系統の禅宗は道宣が『続高僧伝』を書き終えた頃、にわかに注目されはじめた新しい運動だったのである。



【注】

  1. 拙稿「僧稠について」(『禪思想形成史の研究』 p.19)参照。

ContentsBackNext
▲page top  

 Last Update: 2003/10/09