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『続高僧伝』興聖寺本について:解説 (沖本 克己)




■慧可と『楞伽経』

 次に慧可伝における問題を見ておこう。

 『続高僧伝』達摩伝(T.50551b-551c)による限り、そしてまた達摩に帰せられる『二入四行論』に見る限り、その内容に取り立てて『楞伽経』と菩提達摩を結びつける顕著な形跡はない。

 そうした前提に立って見るならば、慧可伝は様々なエピソードの重層構造となっていることが分かる。例えばここには達摩と『楞伽経』との関連について、慧可伝に達摩からの伝授としてそれが記録されているが、胡適の考証によって、それは後代の付加と考えられている(5)

 胡適の指摘する竄入部分は、

  1. 初達摩禅師以四巻楞伽授可曰。我観漢地惟有此経。仁者依行自得度世。(552b)
  2. 毎可説法竟曰。此経四世之後変成名相。一何可悲。(552c)
  3. 故滿毎説法云。諸佛説心。令知心相是虚妄法。今乃重加心相。深違佛意。又增論議殊乖大理。故便那満等師常斎四巻楞伽以為心要。随説随行不爽遺委。後於洛陶中無疾坐化。年可七十。(552c)

の三ヶ所であるとされる。しかし、3の部分につづく「斯徒並可之宗系。故可別敘。」も、一連の竄入と解すべきであるし、第二の部分から第三の部分に至る二十一行、即ち那禅師・慧満・曇曠法師のエピソードも連続した増広部分であると解する方が妥当であろう。これらは全て、『楞伽経』の系譜に属する頭陀行者に関連する記述であり、連続させて元の慧可伝から切り離す方がそれぞれの文意が通るからである。

 今、上のことを元にして、長くなるが竄入・加上されたと考えられる原文を引いておくと、

初達摩禅師以四巻楞伽授可曰。我観漢地惟有此経。仁者依行自得度世。毎可説法竟曰。此経四世之後変成名相。一何可悲。
(有那禪師者。俗姓馬氏。年二十一居東海講禮易。行學四百南至相州遇可説法。乃與學士十人出家受道。諸門人於相州東設齋辭別哭聲動邑。那自出俗。手不執筆及俗書。惟服一衣一鉢。一坐一食以可常行。兼奉頭陀。故其所往不參邑落。
有慧滿者。滎陽人。姓張。舊住相州隆化寺。遇那説法便受其道專務無著。一衣一食但畜二針。冬則乞補。夏便通捨覆赤而已。自述一生無有怯怖。身無蚤虱睡而不夢。住無再宿。到寺則破柴造履。常行乞食。
貞觀十六年。於洛州南會善寺側宿柏墓中。遇雪深三尺。其旦入寺見曇曠法師。怪所從來。滿曰。法友來耶。遣尋坐處。四邊五尺許雪自積聚不可測也。故其聞有括訪諸僧逃隱。滿便持衣鉢周行聚落無可滯礙。隨施隨散索爾虚閑。有請宿齋者。告云。天下無人方受爾請。)
故滿毎説法云。諸佛説心。令知心相是虚妄法。今乃重加心相。深違佛意。又增論議殊乖大理。
故使那滿等師常齎四卷楞伽以為心要。隨説隨行不爽遺委。後於洛陶中無疾坐化。年可七十。(斯徒並可之宗系。故可別敘。)(552c)

となるのである。カッコでくくった部分が新たに加えた追加部分である。これによって第二、第三の文は連続することになる。特に慧満の最後の説法、即ち、

故に滿は毎に説法して云く、諸佛の心を説くは、心相は是れ虚妄法なるを知らしめんがためなり。今ま乃ち重ねて心相を加えるは、深く佛意に違い、又た論議を増して殊らに大理に乖せん。

というのは、『楞伽経』に基づく教説であることは明白である(6)

 そして確かに、この部分をカットすることによって、元の慧可伝の文脈もはっきりするのである。さらに言えば、慧可伝そのものは、「故末緒卒無榮嗣」(552a)まででおわっており、後は交流のあった向居士や化公、彦公、和禪師、林法師などの名前や事蹟が記されているのである。

 すなわち、ほんとんど弟子が居ない、といったん書き終えた後に慧可が別の文脈で、即ち楞伽宗の祖師として高く評価されていることに気づいて慧可の周辺に集まる群像を書き足したものと考えてよいだろう。

 ここに向居士の書簡とされるものは『二入四行論』に、

故に幽懐をそそいで、いささか入道方便偈等を顕さん。用いるに有縁同悟の徒をえらぶ。暇有らば披攬せよ。坐禅して終に須らく本性をげんぜん。
故写幽懐、聊顕入道方便偈等。用簡有縁同悟之徒。有暇披攬。坐禅終須見本性(7)
という、所謂『二入四行論』雑録部分に対する序文のあとに記される弟子たちの一人の言葉に含まれているのである(8)

 以上のことをまとめるならば、慧可伝には『二入四行論』伝持者としての慧可と『楞伽経』伝持者としての二つの相互に矛盾する文章が混在しているのである。

 そして、上に上げた人々が『二入四行論』系統の弟子たちであるとすれば、一方、『楞伽経』伝持者の系統は、

 慧可 ― 僧那 ― 慧満

であると道宣は認識していたのである。ここに慧満は道宣(596-667)の同時代の人であると推測されている(9)

 かくして、『続高僧伝』興聖寺本は早くも多くの加筆部分を含んでいることが明らかとなった。そして、こうした文脈の乱れが、当時の達摩禅の急激な勃興を示唆しているのである。そしてそのことが後々の法系争いの淵源ともなって行くのである。



【注】

  1. 胡適『胡適文存』第四集巻二、「楞伽宗考」、台北、1953, p.211ff.

  2. 例えば四巻本『楞伽経』に、「種種不實諸虛妄滅。則一切根識滅。大慧。是名相滅。」(T.16,483a)等とあり、類例は枚挙に暇がない。

  3. 柳田聖山『達摩の語録』筑摩書房、1969, p.48。

  4. これを序文と見做すことについては、次に公開される論攷を待たれたい。

  5. 柳田聖山『初期禅宗史書の研究』法蔵館、1967, p.20.

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 Last Update: 2003/10/09