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『続高僧伝』興聖寺本について:解説 (沖本 克己)




■禪宗の法系

 初期禅宗史の困難な課題の一つである法系争いについて一言するならば、ここに記される「四世懸記」はどのように考えるべきであるかが問題となる。慧可の四世後と言えば慧満の弟子の世代である。一方、楞伽宗の正系は『楞伽師資記』によって、

慧可 ― 僧璨(529-613) ― 道信(580-651) ― 弘忍(601-674) ― 神秀(606?-706)

とされる。道信伝も興聖寺本のまとめられたあと、道宣が最末年までに書き加えたものの一つであるが、神異の修禅僧であるというのみで(T.50,606b)、これをもって直ちに達摩系に結びけることはできない。

 すなわち、道宣の意識の中には後の禅宗の主張する法系についての認識はなかったごとくであり、こうした禅宗に特徴的な厳密な宗派的法系の思想自体が当時の仏教界そのものに存在しなかったと言ってもよいであろう。宗派発生当時はもっと柔軟な形態だったことは、諸派の交流の事実からも容易に推測し得るのである。

 それ故、道宣が当時の仏教界、とりわけ勃興期の禅宗の複雑な動向の全てを知悉してわけでもないことは理解しておかなければならないにしても、ここに記される四世懸記は明らかに偏狭な党派的争いの反映なのである。

 そしてそれが道宣の記述に矛盾を内包させてしまった原因でもあるが、こうした事柄は、初稿完成後、四年の内に書き改められた興聖寺本の持つ特徴の一つといっていいだろう。

 そしてさらに、我々が手にする現『續高僧傳』の、附加された部分である法沖伝には更に多量の楞伽師の名前が挙げられているのである(T.50,666b)(10)。これをもって、所謂楞伽宗の急激な抬頭の様相の一端を知ることができるのである。

 その楞伽宗の系譜には上にも指摘したとおり、知り得るだけで二つの流れがある。では、慧可をして「此の經は四世の後に変じて名相と成らん」と言わしめたのはいったい誰なのか。

 この予言はもとより慧可の云ったことではなく、慧可こそは達摩から伝えられた『楞伽經』の伝持者であるとする後世の説に他ならない。

 そもそも『楞伽經』の本格的な研究が盛んになるのは隋代以後の事である。そして、それは『起信論』についても同様で、初期の考究は、曇遷(542-607)等が中心人物の一人であったとしなければならない(11)。シナの禅界のみならず仏教界全体には、折々の流行、といったものがあり、ある時期に集中的に特定の経典や論書が研究される、そういった事象が観測されるのである。そして、達摩や慧可の時代には『楞伽經』はいまだそうした時期を迎えてはいないのである。

 つまり、道宣が『續高僧傳』完成後に増補した、楞伽師として達摩および慧可を顕彰し、それを継承すると称する法沖の系統を所謂楞伽宗と称するならば、楞伽の系統をつぐという主張がすでに別に存し、両者には対立が生じていたということであり、この予言はその一方の側からの批判でなければならないのである。

 ではいずれの側からの批判であるのか。くだいて云うならば、一方に慧可、さらには達摩に発する楞伽師の系統を継承すると主張する党派が存し、他方にそれに対する批判を慧可に託していわしめた、自ら正系を自認する党派があったということである。そしてそうした正系争いが道宣が『續高僧傳』初稿本を書き終えた頃に既に発生しており、それを知った道宣が急遽校訂・増補を加えたが、それは比較的早い時期から始まっており、それから後も絶えずテキストは増補を重ねていたということである。

 ところで慧可の四世後といえば『楞伽師資記』をはじめとする禅宗の伝承では五祖弘忍(601-674)にあたる。

 道信、弘忍のいわゆる東山法門が『楞伽經』の伝統に立たぬことは上にも見たとおり『續高僧傳』道信章からも明らかであるが(12)、とすれば、慧可懸記は正に弘忍およびその周辺、即ち東山法門に対する批判でなければならない。

 そして、そのことは東山法門に既に楞伽師即ち達摩の正系を任ずる主張があったことを意味し、そうである以上、そこにすでに何らかの灯史が存していたことを知らしめるのである。

 現存最古の灯史としては、その全容は知られぬが、玄頤(13)による『楞伽(佛)人法志』のあることが『楞伽師資記』の引用から知られる。しかしながら『人法志』は神秀の没後に著されたものであり、それ故、道宣の時代に成立した灯史ではあり得ない。

 ところで、これらの二著は『續高僧傳』の楞伽宗の系統をそのまま継承してそれを東山法門に結びつけたものであるが、同じく『續高僧傳』をその成立根拠としながらも、意図的にそれに対決する姿勢をもつものに『傳法宝記』系統の灯史がある(14)

 そしてこれらはいずれも八世紀前半に成立し、しかも相互に相手の存在を知らなかったといわれる。

 一体、ほぼ時期を同じうして成立した史書が、相互にほぼ同じ法系を、しかもそれが先に見た如く牽強附会に基くものを、互に無関係に説くとは考えられない。それ故、両者の共通のソースとなった灯史を措定する必要がある。

 そしてそれこそが慧可懸記にかかわる、道宣の晩年あるいは没後まもなくに弘忍に関わりつつ成立したと考えられる灯史であり、従って、禅宗に於ける祖統意識は従来考えられていた以上に早い時期に遡ることが明らかとなるのである。



【注】

  1. 柳田聖山『初期禅宗史書の研究』法蔵館、1967, p.22,ff. 拙稿『禅思想形成史の研究』国際禪學研究所、1979, p.76,ff.

  2. 法上伝(T.50,485a)。慧海伝(T.50,515c)。智正伝(536c)。曇遷伝(T.50,572b)。静琳伝(T.50,590a)。玄琬伝(T.50,616a)。法沖伝(T.50,666b)等に『楞伽経』講義の記事が見える。このうち、智正、静琳、玄琬、法沖がそれぞれ曇遷に関わる。曇遷はまた『起信論疏』を撰している(T.50,574b)

  3. 精徴な考察がすでになされている。(柳田前掲書 p.64ff.)。また、全唐文304、『大唐蘄州龍興寺故法現大禅師碑銘』に、
    師預修已墓寺前南嶺地為吉祥、掘皆巨石不可開動、已経数日、師意弥専、忽有一人来詣掘所、作礼既畢出一編書、与師遂云為師穿墓観其用状、殆非人功信宿掘成、不知所在、開其留書、乃菩提達摩之論也。
    とあり、楞伽宗と東山法門が系統を異にすることを傍証する。

  4. 生没年不明。『楞伽師資記』によれば、神秀没後、十余年以上存命している(柳田『初期の禅史 1』筑摩書房、 p.57)。それ故その没年は720年前後と考えられる。

  5. これら初期の灯史をめぐる諸間題については、[柳田初期]にほとんど論じ尽くされている。なお、『伝法宝紀』は『続高僧伝』に基いて慧可懸記を二度にわたって引用するが[柳田初期1 p.366,420]、その意図は、『続高僧伝』にいう意味をことさらすりかえる所にある。即ち、慧可懸記は本来東山法門批判であるが、それを自らにとりこむことによって、その批判を換骨奪胎して、他に向いているかの如くに装わしめたのである。

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 Last Update: 2003/10/09