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関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』 |
【第3回】 嵯峨鳥居本のセンノウ
嵯峨鳥居本の仙翁花
ともあれ、『大和本草』や『和漢三才図会』が仙翁花発祥の地だとしている嵯峨鳥居本仙翁町を訪ねてみることにした。この地ではいまも仙翁花があるとも聞いていたのであるが、果たして町内の数軒で栽培されている「仙翁花」というのを見せていただくことができた。葉と花は、ハイビスカスを小型にしたような感じで、実にあでやかである。その栽培はかなりむずかしいものだとも伺った。花姿といい草丈といい、植物学事典に載る仙翁花 Lychnis senno とは明らかに違うものに見えた。どうやら尋ねるところの仙翁花ではなく、江戸時代になって何種も作り出されたマツモトの一種のようだ。仙翁町では「嵯峨仙翁花」と呼んでいる。 室町のころの仙翁花を見ることはできなかったが、『嵯峨誌』(嵯峨教育振興会、平成十年再刊。初版は昭和六年刊)に「仙翁井記」という古記録があるのを見出した(原本の所在は、目下不明)。嵯峨に住んでいた角倉一族の祖先記でかなりの長文であるが、その中から仙翁花に関わる部分をあげる(原文は漢文。[ ]内は芳澤補記)。 山城嵯峨の白雲山下に、往昔、一異人有り、医を以て業と為す。其の郷閭を詳かにせず、又た其の姓名を言わず。積年累月、容色衰えず。時人之を呼んで仙翁と称す。後、三輪氏の女を娶り、一男子を産み、名づけて称意子と為す。……言い訖って草を地上に投ず。化して一草花を生ず。世に之を仙翁花と謂う。七月七日平旦脱去せり。時人其の徳を慕い、寺を建てて之を祀る。称意子、天を仰いで慟哭す。…… 文中に出る日華子というのは、角倉意庵(吉田宗桂、1512〜1572)の号である。足利義晴の侍医で、天龍寺の策彦周良が入明したときに随侍したことがある。元亀三年十月二十日死没、年六十一。大堰川などの治水で有名な角倉家の祖、角倉了以(1554〜1614)の父親である。この書を記した「西斎老人子謙子」という人物は誰であろうか。「子謙子」という名は不自然のようにも思うが、原本を見ていないので、いまは『嵯峨誌』の翻刻を踏襲する。「日華子、予と方外の交わりを締んで、茲に年有り」とあるように、角倉意庵と親しい人物が書いたものである。ともに入明した天龍寺の策彦周良(謙斎)であるならば恰好に思うが、誰なのかいまは未詳である。疑問を残しておく。 初出『季刊 禅文化 185号』(禅文化研究所、2002年)
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