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関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』 |
【第7回】 仙翁花の贈答
何といっても、仙翁花の記述がもっとも多く見られるのは『蔭凉軒日録』(1458〜93)に於てである。相国寺蔭凉軒塔主の公用日記であるが、中には私的なことも記録されていて興味深い。1435年〜66年が季瓊真蘂、1484年〜93年の間は亀泉集証によって記録されている(大日本仏教全書。原漢文を訓読にし原文は略す。翻刻にみられる「筒」「箇」の混同など、適宜訂したが、一々注はしない。傍点筆者)。 ○長禄三年(1459)
旧暦八月末にもなると、仙翁花も終盤となり、より貴重品だというのである。現在に残る仙翁花(Lychnis senno)も、十一月(新暦)始めころまでは花をつけることがある。 ○文正元年(1466)
以上は、季瓊真蘂の記録部分に出るものだが、いずれも仙翁花を「献げた」、つまり、将軍府に献上したという簡単なもので、いささか、そっけない記録にとどまる。 ところが、『日録』後半部分の亀泉集証の記録になると、この花についての情報は一転して多様を呈するのである。 ○文明十七年(1485)
小補というのは横川景三である。この年、五十七歳。四月には相国寺に再住、小補軒に退居していた。横川から到来した数十本の仙翁花を、その夜にはそのまま将軍府に献上している。花の鮮度があるうちに届けたのであろう。
東雲・春嶺・東川の名は『日録』の他にもよく出るが、いずれも少年侍者(喝食)である。そして、ここでは、花が入れられている瓶の形状、それに台がしつらえてあったことが記されている。
東府は義政、西府は義尚。堀河殿御局は、女中
立命・立阿は、将軍府で側用をつとめる同朋衆の名である。しばしば、将軍のために花を立てている。
「美丈」は喝食に対する美称である。東川美丈から八十八本もの花が届いた。蔭凉職は、これを二等分にして別のところへ贈っている。何しろ猛暑の中、傷みやすい生花である。流通の動きは早い。八十八本をよそへ贈ったと思ったら、そこへまた二十九本が到来するという具合である。そして、七夕を間近にひかえ、花のやりとりはいよいよ頻繁になっていく。
冷泉殿、春日殿、大蔵卿はいずれも女中白次の名である。七夕の前夜に蔭凉職のところに集まった仙翁花は七百八十五本ものおびただしい数になる。そして、これらはその夜の涼しいうちに、将軍府はじめ貴顕のところへそれぞれ届けられた。明日の七夕法楽に用いるためである。 初出『季刊 禅文化 186号』(禅文化研究所、2002年)
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