【第12回】 江戸まで残る献上の風習
「一包」とか「包む」という表現は『蔭凉軒日録』にも見えていたが、ここではその包紙が「金銀」であると記す。室町のころ、この花の包装がどのように行なわれていたのか、そのことを推量する上で参考になりうる絵画史料がある。ともに江戸後期に描かれた絵である。
A(掲載許可申請中)
Aは、近衛家陽明文庫に残るもので、画家は原在明(1788〜1844)。七夕の日に近衛家から禁裏へ、仙翁花などを飾りつけた「花扇」を献上するさまを描いたものである。扇型に、芒・桔梗・仙翁花・白菊・小車・女郎花、そして中央には蓮と、七種の草花が飾られている。陽明文庫に残る記録(未見)によれば、花扇は高さ三尺三寸、幅二尺二寸あったということである。描かれた花飾り「花扇」は着色の檀紙で包まれ熨斗で締められている。
B(奈良県立美術館蔵)
Bは、住吉広定(1793〜1863)の描いたもの。いかなる状況を描いたものか未詳だが、Aと同じように花扇を献上するさまが描かれており、この花扇も二種の着色された檀紙で包装されている。二つの絵はともに極彩色で、花々の中でも深紅の仙翁花は一段と目立ち、精彩を放っている。
江戸期になっても、禁裏での七夕花合わせの行事は依然つづいていたのである。室町期の禅林でもまったく同じ方法で将軍府に献上されていたかどうかは分からないが、ほぼ似たような形で行なわれていたのではないかと推測する。A、Bではともに、被衣を着、高下駄をはいた女性が先導しているが、室町禅林の場合、時に少年侍者が先導していたこと、『蔭涼軒日録』からもうかがえる。七夕の前、都ではこのような使者が朝な夕なに「草花」を持って頻繁に行き交うのが見られたことであろう。
『鹿苑日録』のつづき。
○天正九年(1581)
- 六月二十三日、嘉首座、夏菊数茎・仙翁花一朶持ち来たる。凡眼を驚かす者なり。未だ人間に此の花の有るを知らず。
- 七月七日、嘉首座、仙翁花を持ち来たる。
○年紀未詳
- 七月八日、道西より、仙数茎、之を賜う。欣然たるに堪えず。然りと雖も、昨日が仙の節なり、是れ今日は八日なり。節に後れたる賜を進すか)。
『鹿苑日録』の記事は以上である。
江戸に入ってからの禅林の記録である『隔蓂記』(1635〜1668)には、仙翁花の名はまったく見えない。著者の凰林承章は諸芸道にくわしく、立花についてもしばしば記録しているのに、七夕前後であっても、この花のことはまったく記録に現れないのである。既に禅林ではこの花を贈答する風習はなくなり、わずかに公卿衆になかで、七夕の行事として伝えられていたのであろう。
花扇の風習はいまもある。奈良猿沢池畔にある采女神社(春日大社の末社)では、七夕ではなく仲秋の日に二メートル余りの花扇を車に載せて数十人の稚児が引き、そして池に浮かべた竜頭船にこれを乗せ、雅楽を奏でながら池を三周し、采女神に奉納する。また、七夕の茶事で、小さな花扇を飾るところもあるという。
初出『季刊 禅文化 186号』(禅文化研究所、2002年)
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