ホーム > 研究室 > 五山文学研究室 > 関連論文 > 仙翁花 (目次) > 第13回

研究室  


五山文学研究室

関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』




【第13回】 艶詞と仙翁花

 旧暦の七夕、新暦でいえば、ほぼ八月のお盆前後を最盛期として開花する仙翁花が、七夕立花として用いられたことはすでに見た。一方で、七夕はまた星節と呼ばれ、牽牛と織女とが年にわずか一度だけ遇うことのできる佳節とする俗説があり、相思の者にとって特別の日であることを意味したが、室町禅林においても七夕の節句は格別の意味をもつ日であった。禅林での花の贈答は一年を通じて行われ、その時々の季節の花を贈っていたのだが、七夕という特別の日に贈答される仙翁花は、他の単なる花以上の意味をもつものになっていったのである。

 建仁寺の僧、三益永因(生没年未詳、1520年ころ没か)の詩文集『三益艶詞』(続群書類従、巻三四五、513頁)には、仙翁花を詠った詩がいくつか出るが、永正十六年己卯(1519)の作である詩の序には、七夕が「特別の日」であることを次の ようにいう。

夫れ叢林の密契の徒、毎歳、必ず星節を以て合歓の夕と為す。蓋し西牛・東女遇合の時を取るなり。予、忝くもーー佳丈の末契となる者、茲に三周。前年丁丑ひのとうしの星夕、丈、京兆尹の招きに赴く。是の故にさきだつこといちにちゆうべ、期に先んじて予によぎらる。今[令か?]作詩云く、牛女の佳期、明夜に卜す、人間、先に祖生そせいべんを着く。去年戊寅の夕、丈、復た若耶じゃくや(若狭)旧梓きゅうし(ふるさと)に在り。予、独臥孤眠、空しく双星の渡河を望むのみ。今己卯つちのとうの星夕、偶たま玉趾を把茆はぼう簷下てんか(私の菴)に迎う。一年三百六十日、日々、指を屈して此の夕を待つ。嗟乎ああ、三星節にして相い逢うことを得る者、纔かに一夕なり。人間の遇合の易違する者、知んぬ可し(以下、詩は略)

「密契」は、語録では「密契玄関」「師資密契」などというように、不立文字、伝心の旨に契うことをいうのだが、ここではむろん、そういうことではない。室町の禅林では互いに意を通じて「義を交わす」(この「交義」の意味についてはあとでふれる)間柄になった僧と喝食の関係をいう。義を交わす者にとって、七夕は特別の日であり、この晩を「必ず合歓の夕と為す」のだが、どうしても都合の悪いときにはその前日にあったりするのである。「牛女の佳期、明夜に卜す、人間、先に祖生の鞭を着く」という詩はそのような事情を言っている。牽牛・織女が逢えるのは明日だが、我々はそれより一日早く、六日の晩に逢う、というのである。「祖生の鞭」は、祖逖の故事に基づく語だが、ここでは「鞭」には何も関係なく、単に「先んずる」という意(「ピシリと鞭を入れる」などという、驚くべき訳注を二度までも見た!)

 『三益艶詞』は、艶詞だけを集めた一冊の書であり、それらの詩のほとんどがまた、江戸初期に編まれた五山詩のアンソロジー『翰林五鳳集』巻六十二、恋部におさめられている。「艶」というのは、七言詩以外に文(書簡)も含まれているからである。

 この書について、辻善之助氏は次のようにいっている(『日本仏教史』第四巻、中世篇之三、第八章、第五節、五山文学、450頁)

五山文学は…漸く墮落の傾向をたどり、終には男色文学にまで陥つていつた。美少年に関する詩偈は、五山文学の詩文集には、之を載せざるものは少い。其詩文は即ち美少年に對する艷書である。この種の文学は、心田清播の心田詩稿・三益永因(永正の末、1520頃寂)の三益艷詞に夥しく見えるが、一読嘔吐を催すばかりである。

『三益艶詞』についてはまた、伊藤東慎氏の「三益永因の艶詩―若狭武田系武将と五山禅僧」という一文がある(『禅文化』五九号、昭和四十六年一月)。その中で、伊藤氏は「男女の交遊に擬した作詩の技巧が異色である。これをもって直ちに室町時代の男色と結付けることは差控えなければならないであろう」とし、辻氏の説に異議を唱えているかのようである。また伊藤氏はこの艶詩の相手は若狭武田氏の「年少武将」であるとし(補注)、「それが武将であることは、次の詩序が説明している」として引いている詩序にいう(訓読は芳澤)

昔、魏・呉・蜀、天下を三分して鼎峙す。呉・蜀、勢い衰えて魏のみ終に独り全し。ーー尊君閣下に侍する者三、共に忠義を存して権勢を争わず。三即一、一即三なり。然りと雖も、君恩ひとしからざるときは、則ち鷸蚌の心無きこと能わず。さきごろ其の一は南行し、其の一は北に去り、朝に趨く者は予一人のみ。恰も三国の一に帰せるが如し。阿呵々。昨宵、尊君、予によぎらる。其の明くる日、戯れに一絶を賦して、之を呈上すると云う、(詩は略す)

この部分には、「ーー尊君閣下」が武将であることを証する記述は見えない。三国鼎立のことがあるから、武将であると直結したのであろうか。氏は「同郷の武将に三益も他の二人と共に随侍していた。……従者は三人だったのに三益ひとりになってしまった」としているが、右の記述は君臣主従のことをいうわけではない。ここに出る「尊君」「忠義」「君恩」といった語は、じつは艶詩においては一種の隠語のようなものであり、「君」は当該の美少年のことをいい、「ちょうに趨く」とは、少年に逢うことをいう。『碧山日録』(臨川書店、増補続史料大成版、3頁)長禄三年正月十七日の条に、

近時、叢社の□(風か)、年少の美なる者と交りを締んで、往々詩を以て其の意を通ず。其の言、多く臣の君に従うに準う

「年少の美なる者」というのは、叢林外ではなく、叢林内にいた少年のことである。老壮年の僧が十四五歳の少年と交わりを結んだ時、その少年を君主になぞらえ、自らをそれに忠義を尽くす臣下と見るのである。たとえば『三益艶詞』に「近日朝班有新進、聖恩未忘旧時臣」、「一介忠臣鉄石腸、須臾不敢忘君王」などとあるが、「朝班」「聖恩」「君王」は少年にかかり、「旧時臣」「忠臣」は僧(三益)のことをいう。同じ『碧山日録』(同前書、152頁)の寛正三年十月十三日の条に、それらの少年のことについて記し、

叢林のわらべの喝食の列と為る者、凡そ四五歳を以て十六七に至る。剃髪せずして成長する際、多くは遊戯奔走して、諸もろの過悪の行い、之を為すこと一ならず。

とある。まだ遊びたい盛りの、頑是ない子供らの実情が分かるのだが、これらの少年たちは、一方で、かなり高等な詩文の教養、叢林特有の文化を教育されていたのである。三益が艶詩を贈った「ーー尊君」も、このような禅林内部にいた喝食の一人である。これらの少年のうち少なからぬものは貴顕の出自で、だいたい十五歳になると剃髪して僧となったのである。

 先の詩序では、「ーー尊君」と契りをむすんでいた者(僧)が、三益をふくめて三人おり、互いの愛顧を蒙りたく思っているさま(四角関係)を魏呉蜀三国鼎立になぞらえたのである。交義の関係は必ずしも一対一ということではなかったから、常に「恩寵」を得てしがなと、詩文を贈る必要があり、ここに、艶詞が発生したようである。別のところの詩には「滕薛相争鵠立臣、承恩次第謁楓宸」とあるが、「滕薛相争」は、左氏伝に出る話で、滕侯と薛侯が謁見する順次の後先をあらそったことをふまえ、少年を愛顧をこいねがう者が多いことを言っている。

 三益の艶詩の相手が若狭武田氏出身の喝食であり、その内容が典型的な「男 色文学」であることは、原詩を丹念に読めば明白になるところである。

初出『季刊 禅文化 187号』(禅文化研究所、2003年)

【補注】


 本稿成稿ののちに、伊藤東慎氏が同じ昭和四十六年十月の『禅文化研究所紀要』に発表された「狂歌師雄長老と若狭の五山禅僧」に目を通した。そこでは、「三益艶詩は……若狭武田家武将出身の雛僧との唱和艶詩集である」となっており、また、「唱和の相手は勿論明かにされていないが、天正十四年といえば、潤甫周玉も春沢永恩も共に十四歳、いずれも恰好のモデルになれそうである」と、二人の名をあげておられる。


ContentsBackNext
▲page top  

 Last Update: 2003/07/13