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五山文学研究室

関連論文:『仙翁花 ―室町文化の余光― 』




【第14回】 室町文化の不可欠要素としての男色

 前回において、『三益艶詞』に対する、相反した二つの立場を見た。禅門に身を置く立場からすれば、「男色」などということは忌わしい認めがたいことかも知れぬが、室町禅林における少年趣味はすでに紛れもない事実である。ことさら過大にあげつらうこともないけれども、そうかといって無視したり否定することは誤りである。現代の感覚や常識からすれば、まことに異常なことに思えるかも知れぬが、室町時代では、「男色」は何ら疑問を持たない、ごく当たり前の、空気のように不可欠の「文化的要素」であったとすら言ってよい。

 五百年あまりのちの現在では、事情は大きく変わり禅僧も妻帯することが多いのだが、室町時代の標準から見るならば、この現状のほうがむしろ異常に見えよう。その時代に立ち戻り、その時代の空気の中でしか、感じとり気付くことのできない事実もあるのである。

 時代はやや下るのだが、天正年間に来日したイタリヤの宣教師ヴァリニャーノは、この「特異な文化」にでくわして、驚きをもって「最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするに堪えない」(平凡社、東洋文庫『日本巡察記』、16頁、松田毅一ほか訳)と報告している。そして、それに続く記述はじつに興味深いものである。

「彼等はそれを重大なこととは考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。それは、仏僧が説く教義はこれを罪悪としないばかりでなく、きわめて自然で有徳の行為として、僧侶自らがこの風習を有するからである(同書16頁)

決して隠すべきことではなく、むしろ誇らしい生き方であり、徳目であるかのごとくふるまっていた、というのである。

 この指摘によって想起する絵がある。桃山時代に描かれた「高雄観楓図」には、紅葉狩りでにぎわう行楽の地を、喝食を連れて遊山する僧の姿が描かれている。喝食を連れて高雄観楓を行うのは、将軍を筆頭にした上流階級のファッションで、禅僧もよく出かけており、しばしば、五山詩に詠まれているところである。


狩野秀頼「高雄観楓図」部分
狩野秀頼「高雄観楓図」部分

 ここに引いた部分図に登場するのは僧二人、喝食二人、供一人の計五人だけだが、全体図で見れば、すぐ左の方では六人の男が車座になって宴をしており、うち一人は立って踊っている。後ろの橋にも四人の人物があり、右方でも九人の女子供が車座になって宴をしており、その傍らでは棒振ぼてふりの茶売りが茶を売っている。つまり、僧・喝食の一行は彼等だけのグループで、人気ひとけのないところへ「お忍び」のように出かけているわけではなく、いわば稠衆の中、現代でいえば、紅葉で賑わう嵐山渡月橋のような場所を、美少年を伴って歩いているのである。僧たちはいくぶん「誇らしげ」な表情にも見える。

 また、舟木本「洛中洛外図」(下図)には、衆人の行き交う中、喝食の手を引いて歩く僧の姿も見える。右の僧のまなざしは喝食に注がれ、羨望の表情を呈しているようにも見える。同じような場面は、各種の「洛中洛外図」でも確認することができるのであり、当時は、ことさら異様な光景ということではなかったのである。


舟木本「洛中洛外図」A本左隻四扇部分
舟木本「洛中洛外図」A本左隻四扇部分

 丸谷才一氏は、五味文彦氏の院政期の仕事にふれる中で、「日本文化はもともと男色を容認する傾向があったのに、無理をしてその要素を見ないようにしていた在来の方法が偽善的だったのだ」(「いつもそばに本が」朝日新聞読書欄、2000年8月27日)と述べているが、同感である。殊に室町の禅林文芸を扱う際には、この問題についての認識を欠いていては、的確な解釈はほとんど不可能といってもよい。

 また、この問題について、つとに発言の多い南方熊楠は、興味深いことを指摘している(『男色談義』岩田準一往復書簡、1991年、八坂書房)

「およそ男色と一概にいうものの、浄と不浄とあり。古ギリシアなどにはこれをわかつことすこぶる至れり。(浄とは東洋で五倫の一とせる友道の極致に過ぎず)(26頁)
「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候」(42頁)
「一概に不潔とか非倫とか(男道すなわち真の友道は五倫の一たり)忌むべきとか穢らわしいとか非理とかいうて世俗に媚びるようでは……何の研究も成らぬもので一生凡俗に随順してその口まねをするものなり」(69頁)

 室町禅林における「男色」も、たとえば江戸期の衆道などと一概に論ずるわけにはいかないのであり、また現代の同性愛などと一緒にするわけにもいかないのである。五山僧みずからがこのような交友を「交義」と呼んでいることからも分かるように、南方熊楠のいう「男道」とか「友道」ともいうべき、一種の精神性がまずもって尊重されていたことは確かであり、その精神を媒介するものとして詩文が著しく尊ばれ、何よりも詩文の才を矜持とした五山僧が、それなりに真剣に艶詩を作っていたのである。

 そして、彼らが会って何をしていたかといえば、「一夕赴ーー侍丈佳招席。夜話、話而及吾邦近古之詩」とか「昨夜僕与ーー侍光、対床夜話。話而及頻年入唐使所言者、就中西湖多少佳景」、あるいは「予一夕、陪ーー雅丈而夜語。品論古今詩格也」(いずれも『三益艶詞』)などとあるように、文芸について語ることも多くあったわけで、一種の教育の場でもあったようである。今日とくらべ、その教養に格段の差があったとはいえ、艶詩は多くの典故をふまえた、きわめて難解な表現が多い。果たして十四五歳の少年が一見して本当に理解できたのかとも思うのだが、この種の詩文のやりとり自体がまた教育の一方便にもなっていたのではないかと思われる。「村詩一章…聊為謁見之資云」(あとでふれる『小補艶詞』に出るもの)などともあるから、逢ったときに、その詩を題材にして(資)語ることもあったのである。

 とはいえ、すべてが「浄愛(男道)」であり、「五倫の一」たる「男道すなわち真の友道」ばかりであったわけでもなく、「浄」もあれば「不浄」もあり、かつまた「浄にして不浄」もあったのである。『三益艶詞』にも劣情の吐露としか思えぬようなものもないではない。辻氏でなくとも「一読嘔吐を催す」むきもあろう。しかし、艶詩とはいえ、一括して否定的に見下してしまっては、この時代の禅林文芸の重要な要素を切り捨ててしまうことになりはしないか。南方熊楠がいうように、「このことを論ずる輩少しも浄と不浄をわかたざるは、子を多く生んだ夫婦を多淫好淫と判ずるようなやりかたで、はなはだ正鵠を失し」(同前書、27頁)てしまうことになるであろう。

 五山詩には、「交義」の観念を基にし、ほのかにそれらしき雰囲気をただよわす作品も多いわけで、よほど注意深く読まなければ、その微妙なところをくみ取れないこともある。こうした雰囲気は五山ばかりか林下にもあり、さらに時代を下って江戸初期の禅林文芸にも残っており、一見、君子の淡い交わりを述べたかのような詩であっても、その基底には、五山以来のこの伝統がひそめられている場合もあるのである。

初出『季刊 禅文化 187号』(禅文化研究所、2003年)

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 Last Update: 2003/08/25