水上勉没後二十年フォーラム 「水上勉と、一休」 開催報告
|
2024年9月8日(日)、若州一滴文庫(福井県おおい町)において、水上勉没後二十年フォーラムが開催され、弊所顧問の芳澤勝弘先生と同副所長の飯島孝良が登壇致しました。
開催当日の9月8日が、作家の水上勉(1919~2004)のご逝去からちょうど二十年にあたることにちなんで、若州一滴文庫さまの御協力を賜り、水上文学における一休を考えるフォーラムを催す運びとなりました。
生前の水上と交流のあった芳澤先生からは、水上が如何に一休と森女という存在を描いたか、柳田聖山の一休論と比較しつつ論じました。
『臨済録』に示された「誰か知らん吾が正法眼蔵、這(こ)の瞎驢辺(かつろへん)に向いて滅却せんことを」―「私の教えがこの目の見えぬロバのところで滅するとは誰が知るであろう」―という句について、伝統的な解釈では「抑下の托上」(抑えつけてしかももちあげる)の表現とされ、臨済が直弟子の境地を否定しているようで肯っている――そしてここに臨済宗が始まることとなった――ものとされていることを指摘されました。この理解は印可証の授受を否定した一休にも見出せるものであって、水上においても「真の仏法というものは、師匠それぞれの個性によって展開結成したものゆえ、おいそれと弟子にひきつがれたり、手わたされたり、そのまま守られてつづいてゆく、というゆうなものではないのである。師匠一代のものであって、それゆえに、尊いのである」(『一休文芸私抄』朝日出版社、1987年、169~170頁)と指摘されるものでした。
しかし、こうした伝統的な解釈は柳田聖山をはじめとした現代禅学では否定されることとなり、「瞎驢辺に向いて滅却せんことを」の一段は後世に新加されたものと論じられてきました。と同時に、「この一段は、臨済が弟子たちの将来に絶望して死んだことをものがたる。かれは、ついに弟子一人も許さなかったのである」(柳田聖山「『臨済録』に何を学ぶか」『禅文化』68号、1973年)などともされ、現代禅学は“新加された”ものとしていったん否定されたはずの一段を用いて臨済の思想(心情)を説明する――「臨済自身の言葉ではないもの」で臨済が内心で絶望していたとする――という不可思議な論法に陥っていた、と論じられました。
柳田によれば、一休は「持戒堅固であって、清僧であったかもしれない」「一ぺんも女性と交わったことのない人であったかもしれない」(「禅と人間:一休のことなど」『海』1974年3月号)とされました。そのため、一休が晩年に出逢った森女の実在を認めず(酬恩庵所蔵の文書などから立証されるにもかかわらず)、森女との出逢いは一休が十三歳のときに産み出した「詩の世界での空想である」と断定するものとなりました。そのため、一休が二十七歳で悟ったときに遺した偈「聞鴉有省」でさえも森女をうたった作品のひとつとみなし、「二十七歳の作品なのに、そこにすでに晩年の禅と文学の極意が含まれている」(『一休『狂雲集』の世界』人文書院、1980年、74頁)と述べるにいたりました。一休を清僧で女性と交わりのない人と論じるために、柳田にとって森女との性愛は不都合で受け容れ難いものとなってしまい、一休の『狂雲集』を解釈するうえでも柳田の先入見・偏向(バイアス)のかかったものとなった――そしてそこには、柳田自身の人生観や生き方が反映されていたのではないか――という指摘が芳澤先生からなされました。
『狂雲集』を「正しく理解することができたのは、私が初めてであると思います」(「一休・風狂の構造――詩と禅の色あげ」『禅文化研究所紀要』21号、1995年)と述べ、一休の私生活に結びつけて卑俗に解釈することに腹が立って仕方がないなどという柳田は、『狂雲集』が「ホントをウソらしく表した文芸作品である」と結論付けるような連想を積み重ねていきました。これに対して、水上は「「小説」はどうせ小説である。ウソをホントらしく書く人もおる」(前掲『一休文芸私抄』)という立場をとりつつ、深く広い知見に基づいて真摯に一休の実像へ迫ろうとしたことを評価されました。
『語られ続ける一休像』(ぺりかん社)などでも水上に取り組んできた飯島からは、戦後に陸続として登場してきた多くの一休像を概観しながら、そのなかでも傑出した一休像を提示するに至った水上文学にある特色を論じました。
水上にあったのは、自身の幼少期から体験してきた禅寺へのまなざしであり、そこから住職と愛人のただれた欲情を目撃した少年僧が苦悩の末に陥る悲劇を描いた『雁の寺』四部作(「雁の寺」「雁の村」「雁の森」「雁の死」/1961~62年)、その続編的な作品として『白蛇抄』(1982年)が生まれたという指摘がありました。そうした背景があってこそ、虐げられた人びととしての学生僧侶や女性たちへのまなざしから『五番町夕霧楼』(1962年)や『金閣炎上』(1979年)などが造形されており、更には最底辺に追いやられた人々による「出自」と「時代」への叛逆を描く『飢餓海峡』(1963年)が著されたとの見解が示されました。
また、見逃せない点として、水上の『一休』(連載は『海』1974年4月~11月号/刊行は中央公論社、1975年)において森女にフォーカスが当てられているとともに、同時期に『はなれ瞽女おりん』(連載は『小説新潮』1974年2月号・8月号/刊行は新潮社、1975年)が執筆されていることが指摘されました。というのも、盲目であった森女と、同じように盲目であった祖母との思い出が重ねられるところがあり、水上の個人史と一休像の造形には明確な関係性が意識されていたこと――ことによると、目のみえなかった水上の祖母や森女にこそ、真にみえたものがあったというように描かれていたこと――が示されました。
こうした水上の一休像が造形された時代性を確かめるために、近現代の他の一休像と比較が試みられました。大正期から昭和期までには、とんち話などを基にして一休を「聖人君子」とするものや、平民教化を主導した禅僧とするものがみられました。そうしたなかで、川端康成のノーベル賞受賞演説『美しい日本の私』(1968年)のように、「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる」と述べて、一休が親しみやすい僧のようで「実はまことに峻厳深念な禅の僧」であったとする――そしてそこに川端自身の問題意識も反映した――ものも提示されました。この一休の自殺未遂について『一休和尚年譜』には短い記述しかみられないものの、水上は率直に、「簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかないが、いつの世も親にしてみれば自殺未遂の子の心理は不可解であったろう。いまの世の親たちもめぐりあう風景だ」(水上勉『一休を歩く』集英社文庫、1991年、60頁)とも述べ、小説家として一貫した姿勢を示しました。この姿勢は評伝小説としての『一休』でも貫かれており、一休と同時代にいた貧民や被差別民について、或いは一休が目にして関わった遊女たちの出自についても、資料からは明確にし難いところを「一休和尚行実譜」なる文献を水上自身の手で創作して不足を補うような手法をとっていきました。こうした特徴的な著述に、「「小説」はどうせ小説である。ウソをホントらしく書く人もおる」(前掲『一休文芸私抄』)という水上の立場は徹底しているものとされました。
水上など戦後文学にある特徴のひとつは、一休の内実を描出するために「婬」の深層を問おうとした点にあり(そうした試みはまた、一休の対峙した「社会的現実」を描こうとする性格もみられるものであり)、一休〈像〉構成には、①謎は多いが極めて魅力的な一休を、(幾分無理やりにでも史実の「穴埋め」をして)提出する、②作者の「問題意識」を、一休の〈像〉を通して解き明かそうとするというふたつの特徴があると指摘されました。戦後日本の文学者たちは、一休を語りながら、“現代社会の矛盾”、“「禅」とは何か”、“日本文化の「伝統」をいかに再考するか”といった著述を展開していきました。水上においては、「九十九人の人が、おまえは国賊だ、おまえは悪人だとよし指を差しても、ちょっと待てよ、わしだけはいっぺんあいつの声を聞きに行こうというておりていく人が、宗教家だと私は思っております。悪人だと思うても、そのしかばねを抱いて弔いできる人を仏教者だと思います」(水上勉「わが人生と文学」『図書』1977年12月号)と述べていることからいえば、水上文学の問い続けた「虐げられた人びと」へのまなざしが一休を描くときにもみられたのではないか、と結論付けられました。
フォーラム後半には座談会を行い、一滴文庫からは五十嵐祖伝師と下森弘之氏にも御登壇頂きました。往時の水上勉との思い出や、一滴文庫の取り組みについて御紹介頂きました。
会場であるくるま椅子劇場入口には、水上が執筆した一休関連の書籍やその一節を記した展示も御準備頂きました。
今回は、京都市内からはもとより、関西圏や東海圏、更には東京など関東圏からもお出まし頂くことが出来ました。フォーラムを催すたびに、遠方から多くの方が御参集頂けていることには本当に有難く存じております。
当日の運営に御助力頂きました若州一滴文庫をはじめとした皆さま、そして御参加の皆さまに、改めて深謝申し上げます。
|
|