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 2017年2月3日付 中外日報「論」掲載

中国仏教思想史上における『宗鏡録』

花園大国際禅学研究所専任講師
柳幹康

やなぎ・みきやす=1981年、栃木県生まれ。東京大大学院博士課程修了。博士(文学)。現在、花園大国際禅学研究所専任講師。専門は中国仏教、禅学。『永明延寿と「宗鏡録」の研究―一心による中国仏教の再編』(法藏館)で中村元東方研究所の第2回奨励賞を受賞。他に、論文「鎌倉期臨済宗における『宗鏡録』の受容―円爾と『十宗要道記』」など。



 『宗鏡録』は今日の日本においてはあまり知られていないが、中国ひいては東アジアにおける仏教の展開を考える上で極めて重要な書物である。
 『宗鏡録』は今から時を遡ること千百年、唐と宋を結ぶ五代十国時代に活躍した禅僧永明延寿(904~976)により編まれた。当時の中国はわずか50年のうちに五つもの王朝が目まぐるしく交替する大変な動乱の時代にあり、仏教は相次ぐ戦禍と二度にわたる弾圧により甚大な被害を受けていた。
 そのようななか、例外的に小康状態を長く保持したのが南方の呉越国であり、同国の歴代国王は仏教を敬い国威の発揚と国力の増強に努めた。延寿は時の国王銭弘俶(在位948~978)の篤い庇護のもと、国都杭州永明寺にあって唐代以前の仏教文献を渉猟し、自心を仏心と看る禅宗の立場から要文を遍く集めて百巻にまとめた。これが『宗鏡録』である。
 『宗鏡録』とは、宗鏡(鏡のように万法を照し出す宗の一心)を明かすべく仏典の要文を蒐集収録した書物の意で、その要点を延寿は「頓悟」と「円修」の二つにまとめている。「頓悟」とは本来仏である自らの心(=宗鏡)を看取すること、「円修」とはその心のままに仏として行為すること――具体的には慈悲の心に基づき、戒律から外れることなく、あらゆる善行を行うこと――を指す。
 延寿にとって『宗鏡録』は細分化した従来の仏教を一元的に統合する書物であった。延寿は当時の各派の僧侶――学僧・禅僧・律僧らに批判的な眼差しを向けている。延寿によれば、学僧は経文を学ぶばかりで一心を看ず、禅僧は一心を看るのみで経文や戒律を軽視し、律僧は戒律を墨守するだけで一心を看ない。それに対し延寿は経文から要文を抜粋して『宗鏡録』にまとめ、一心を「頓悟」し戒律にかなう「円修」を行う道を人々に提示したのである。
 王権を背景に仏教を総括した延寿の『宗鏡録』は、その没後次第に人々の記憶から薄れていったが、宋が中国を統一して絶対的皇権が確立すると、勢力を大幅に伸ばした禅宗を中心に広く受容された。その契機は雲門宗の禅僧円照宗本(1020~99)に求められる。彼は時の皇帝神宗(在位1067~85)の招聘を受けて首都汴京大相国寺慧林禅院に住した当時を代表する名僧で、1070年代に『宗鏡録』を再発見し世に紹介した。
 その後、神宗の弟趙頵(1056~88)が行った小規模な出版と、宗本の法嗣大通善本(1035~1109)が行った大規模な出版を経て世に広まり、1107年になると禅僧の手により皇帝の勅許を得て仏典の一大聖典集たる大蔵経に編入・刊行された。このように『宗鏡録』は宗本の再発見ののちわずか40年も経たないうちに、仏教の正統説と公認されるに至ったのである。
 『宗鏡録』はその後も歴代の大蔵経に収められ続け、諸宗融合の道をたどるその後の中国仏教に理論的根拠を提供し続けた。その様子は後世における二つの延寿像――蓮宗祖師としての延寿像と調停者としての延寿像――の変遷に見てとることができる。
 蓮宗とは延寿が没して200年後、南宋の時代に成立した中国浄土教の一派である。そもそも延寿を直接知る人物が編んだ伝記において、延寿はもっぱら禅宗祖師として描き出されており、そこに浄土的要素は全く含まれていなかった。
 ところが北方異民族の擡頭により社会不安が高まり、浄土の教えが人々に広まる北宋の時代になると、延寿の伝記に念仏の実践や極楽往生など浄土的伝説が挿入されはじめる。そして蓮宗が一宗一派の体裁を整える南宋にいたり、延寿は蓮宗の第六祖に列せられた。いわば延寿は当時の人々の浄土に対する憧憬を反映する形で、その身に蓮宗祖師の衣をまとったのである。
 ついで蓮宗の教えが広まり禅宗に比肩する明清になると、禅宗と蓮宗双方の祖師とされる延寿に人々の注目が集まった。元代を代表する著名な禅僧中峰明本(1263~1323)は、禅と浄土の兼修を認めない自身の立場を延寿に投影し、延寿が禅と浄土を併せ説いたのは、あくまで人々を導くための方便に過ぎなかったとした。
 それに対し明末の四大高僧のひとり雲棲袾宏(1535~1615)は、当時激化していた禅の逸脱を矯めるために禅と浄土の兼修を重んじ、その立場を投影して延寿を「禅浄一致」の祖師と讃えた。袾宏自身が没後蓮宗祖師に列せられたことで、その延寿理解も世に浸透し、延寿は近世中国仏教の二大潮流――禅宗と蓮宗――を統合した偉大な祖師として人々に記憶されることとなった。
 次に調停者としての延寿像について見よう。延寿の没後まもなくに編まれた伝記には、延寿が諸宗を調停したという話が全く見えないのに対し、延寿没後百年、禅宗が中国仏教界を席巻する北宋の時代になると、延寿は禅宗所伝の「一心」により教宗――天台・法相・華厳など仏典解釈に重きを置く諸宗――の諍いを解き『宗鏡録』を編んだという理解が現れる。
 ついで禅宗優勢の宋代から、皇帝が教宗を禅宗の上に据える元代になると、当時を代表する禅僧中峰明本は延寿を「教禅一致」――教宗と禅宗の統合――という偉業を成し遂げた偉大な祖師と看なした。そして明朝の抑圧政策による仏教の衰退を経て、仏教復興の機運が高まる明末になると、延寿は「教禅一致」のみならず仏教内部の一切の諍いを調停した仏教全体の復興者であるという見方が、時の四大高僧のひとり憨山徳清(1546~1623)によって示された。
 以上の見解はいずれも仏教界内部のものであったが、清代になると王権のもとに一切の思想を包摂・統合せんとする雍正帝(在位1722~35)により、「一心」を核に仏教を総括する延寿の思想が高く評価され、延寿と『宗鏡録』は中国仏教史上「第一の導師」「第一の妙典」と絶讃されることとなった。天下の最高権力者である皇帝がこのように明言したことで、清代における延寿の地位は揺るぎないものとなった。
 このように宋代以降、中国仏教が諸宗融合の道をたどるなかで、禅と浄土、教と禅など各種対立が前景化するたびに、それを「すでに解消していた古の聖人」として延寿が繰り返し想起され、人々は『宗鏡録』から「禅浄一致」や「教禅一致」など各種の「一元的仏教」を読み取っていった。
 『宗鏡録』は本来特定の対立要素を単純に一致させるのではなく、一心を核に仏教思想全体を統合する書物であったが、そこには教や禅・浄土のみならず仏教の重要な要素が広く収められていた。だからこそ『宗鏡録』は数百年もの長きにおよぶ生命力を保ち、各時代の求めに応じた仏教の理想像を提供することができたのである。
朝鮮・日本も受容
 なお『宗鏡録』は中国のみならず、朝鮮・日本でも受容された。延寿在世時に『宗鏡録』を見た高麗国王は袈裟や数珠等を贈り弟子の礼をとる一方で、僧侶を派遣して延寿のもとで学ばせ、その法を自国に伝えさせている。また日本には宋代における開板後まもなく『宗鏡録』が伝わり、鎌倉・室町を通じて禅僧を中心にひろく受容された。
 なかでも日本における臨済宗興隆の礎を築いた円爾(1202~80)は布教の過程で『宗鏡録』を時の天皇や関白・高僧などなみいる人物に講じており、その講義を受けた後嵯峨天皇は『宗鏡録』の巻末に「朕此の録を爾師〈=円爾〉より得て性を見おわんぬ」と書き付けたという。このように『宗鏡録』の影響は当時東アジア全域に及んだのであった。



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