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 2017年6月16日付 中外日報「論」掲載

面壁坐禅 ― 坐禅の変遷を考える

花園大国際禅学研究所客員研究員
舘隆志

たち・りゅうし=1976年、静岡県沼津市生まれ。駒澤大大学院博士課程単位取得。博士(仏教学)。専門は日本禅宗史。花園大国際禅学研究所客員研究員、東洋大東洋学研究所客員研究員。沼津市・曹洞宗龍音寺副住職。著書『園城寺公胤の研究』(春秋社)、共編『蘭渓道隆禅師全集』第一巻(思文閣)、共著『別冊太陽 禅宗入門』(平凡社)がある。



禅宗とは

 禅宗は中国で興った仏教宗派の一つである。中国で菩提達磨を祖とする集団は、その後いくつかの系統に分かれて展開し、後に禅宗と呼称されるようになった。
 禅宗は達磨の系譜を受け嗣ぐ宗派であり、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を前提として、「仏心」を師匠から弟子へ伝えた。ゆえに、仏心宗とも呼ばれた。
 禅僧は必ず達磨の系譜を受け嗣ぐものを指し、単に坐禅をする人を禅僧とは言わない。その達磨は、インドから中国に渡って仏法を伝えた人であるが、残された系譜を遡ると、釈尊にまで辿り着くことができる。
 およそ2500年前、インドのシャーキヤ(釈迦)族の王子ゴータマ・シッダールタは、王城を抜け出して長らくの苦行を中心とした修行を行う。しかし、苦行では悟ることができずにこれを捨て、インドのガヤ村の菩提樹の下で坐禅をし、悟りを開いて仏陀(覚めた者)となった。この地は、後に仏陀の悟った地としてブッダガヤと名づけられ、仏跡や寺院が建立され、現在は世界中の仏教徒が巡礼する仏教の四大聖地の一つとなっている。
 禅宗では、釈尊(仏陀)の説法以上に、釈尊の心という絶対の真理を代々伝えていくことを重視した。その絶対の真理を「正法眼蔵、涅槃妙心」と言い、その内容は、経典に記されなかった「教外別伝」の教えであり、文字だけでは説明することのできない「不立文字」の教えであった。この「教外別伝」「不立文字」の教えを、師匠と弟子が坐禅修行を通して、「以心伝心」心から心へ直に伝えるのである。

唐代の文献が初出
達磨の坐禅と中国の禅宗

 達磨を祖とする禅宗の記録に、「面壁」の言葉が表れるのは、唐代の黄檗希運(?~850)の『宛陵録』が最初であり、文献上からは少なくとも宋代以降の禅者は面壁坐禅をしていたと考えられる。しかし、ブッダガヤの菩提樹の前には恐らく壁はなかった。
 それでは、なぜ壁に向かうようになったのだろうか。これは、中国の禅宗初祖、菩提達磨が嵩山少林寺の洞窟の中で壁に向かって坐禅したという「達磨面壁」の故事に基づくものである。現存最古の禅籍『二入四行論』には達磨の禅法として「凝住壁観」と記されており、ゆえに達磨は「壁観波羅門」とも称されるようになった。この「壁観」は必ずしも「面壁」を指す言葉ではなかったが、後に「壁観」は「面壁」と同一視されるようになり、ついには「面壁」そのものが禅僧の坐禅を指す言葉として用いられていたらしい。
 中国の禅僧たちは、「不立文字」の教えを伝えるに際し、さまざまな指導方法をもって法を説いた。その基本的な指導方法が受け継がれて、のちにその系統が禅宗の宗派として呼称された。五家七宗と呼ばれるものがそれで、代表的なものに、曹洞宗と臨済宗があるが、当時は修行生活には相異はなかった。その後、長い年月をかけて少しずつ現在のような違いが生まれることになる。

中世禅林の面壁坐禅

 現在、日本には曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三派が伝わっているが、それぞれの坐禅はどう違うのだろうか。
 一般的によく知られている例で言えば、曹洞宗は壁に向かう面壁坐禅であり、臨済宗や黄檗宗は壁に向かない坐禅で、対面坐禅と呼ばれている。すなわち、壁に向かうのか否かということで大別されている。これは、一般的な禅に関する本に必ずといってよいほど記されていることである。
 曹洞宗の道元(1200~53)は、中国に留学して禅を学んで日本に伝えたが、留学中に天童山で学んだ坐禅は面壁坐禅であった。また、その著作の中でも面壁坐禅を義務づけているように、日本で実践し伝道したのも面壁坐禅であった。さらに、その後の瑩山紹瑾(1264~1325)も面壁坐禅を行じていた。現在の曹洞宗の坐禅はこれを受け継ぐもので、それこそが曹洞宗の特色ともなっている。

栄西も中国で面壁

 しかしながら、よくよく調べてみると、道元が参じた栄西(1141~1215)も天童山などの中国にあって面壁坐禅をしていたことを自ら記していた。さらに同じ時代に活躍した蘭渓道隆(1213~78)や円爾(1202~80)、そして二人の中国における師である無準師範(1177~1249)、南北朝期の夢窓疎石(1275~1351)までことごとく面壁坐禅をしていた記録が残っていた。
 鎌倉末期、臨済宗の鉄庵道生(1262~1331)は、入院法語で修行僧を前にして「面壁の宗猷を振るい起こす」(『鉄庵和尚語録』「乾明山万寿寺語録」)と述べている。面壁は達磨、宗猷は宗旨のことを指し、達磨の宗旨を盛んにするほどの意味であるが、「面壁の宗猷」との言葉は、面壁坐禅が日常の修行であったことを物語っている。
 道元と瑩山以外はすべて臨済宗の禅僧である。すなわち、鎌倉時代においては、中国でも日本でも、曹洞宗も臨済宗も、集団の修行生活で面壁坐禅を実践していたのである。
 坐禅という修行は、なにも禅宗に限ったものではない。釈尊が坐禅で悟った以上、基本的にどの宗派でも行われていたものである。鑑真や最澄の肖像が坐禅姿で残されている以上、東大寺戒壇院、比叡山戒壇院を受戒の基本としていた日本仏教僧侶は、本来は等しく坐禅していたはずであった。
 「面壁」は文献上「達磨面壁」に遡るものであり、律宗や天台宗などをはじめとした諸宗の史料に集団修行での「面壁」の言葉は見いだせない。面壁坐禅を集団の修行生活として行っていたのは、中世の日本では曹洞宗と臨済宗のみだった。すなわち、面壁坐禅は中世における禅宗の特徴の一つだったのである。

黄檗宗から影響か
江戸時代の坐禅

 それでは、この違いは何時から生じたものであろうか。江戸時代前期に活躍した臨済宗妙心寺の僧侶で、無著道忠(1653~1744)という禅僧がいる。学識に極めて優れたため「学聖」と呼ばれ、後に妙心寺住持にもなったが、この人によって興味深い記録が残されている。
 無著道忠は、江戸時代に中国からやってきた禅僧たちが、面壁坐禅をしていなかったことを記録しており、坐禅は初祖達磨にならって面壁すべき旨を述べている。中国の禅僧とは言うまでもなく黄檗宗の僧侶であって、黄檗宗の僧侶たちが自分たちとは異なり面壁坐禅をしていないことを記録しているのである。
 実際、盤珪永琢(1622~93)の法を嗣いだ潜嶽祖龍(1631~86)の伝記には「面壁兀坐」していたことが記されている。
 本年は白隠慧鶴(1686~1768)の二五〇年遠忌に当たる。その白隠の在世中は、妙心寺をはじめとして、臨済宗でも面壁坐禅が行われていたのである。
 宋朝禅を守っていた日本では、面壁坐禅のままであったが、中国ではいつのまにか、壁を向かない坐禅が行われていたようであり、それが江戸時代に日本に輸入されたとみられる。
 したがって、日本において江戸前期までは曹洞宗、臨済宗ともに面壁坐禅をしていたことになる。そして、江戸時代までは面壁坐禅は禅宗の特色の一つでもあったようだ。その後、しばらくして臨済宗も対面坐禅に代わっていくが、これは江戸時代に新たに伝わった黄檗宗の影響をも受けてのことであった。
 鎌倉時代に中国から伝来した禅宗の坐禅は、日本で行じられ受け継がれてきた。そして、江戸時代に新たに中国から伝来した坐禅の影響を受けつつ、現在に継承され、伝灯が受け継がれているのである。




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