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 2018年11月14日付 中外日報「論」掲載

鎌倉時代における兼修禅と宋朝禅の導入
― 中世禅の再考≪6≫

花園大国際禅学研究所客員研究員
舘隆志

たち・りゅうし=1976年、静岡県沼津市生まれ。駒澤大大学院博士課程単位取得。博士(仏教学)。専門は日本禅宗史。花園大国際禅学研究所研究員、東洋大東洋学研究所客員研究員。沼津市・曹洞宗龍音寺副住職。著書『園城寺公胤の研究』(春秋社)、共編『蘭渓道隆禅師全集』第一巻(思文閣)、共著『別冊太陽 禅宗入門』(平凡社)がある。



「純粋禅」という呼称の問題点

 真言・天台を兼ね修する栄西の禅を「兼修禅」と定義し、その対義語として「純粋禅」という学術的な呼称が用いられている。かつて、忽滑谷快天は達磨から六祖慧能・神秀ころまでの時代を「純禅」と位置づけ、その呼称を受け嗣いだ柳田聖山は宋初ころまでの禅を「純禅」と位置づけた。「純禅」の定義は定まっていないが、いずれにしても、公案禅となる宋代の禅は、「純禅」とは呼称しない。しかし、南宋代の禅を導入した鎌倉時代の禅を「純粋禅」と呼称するなら、南宋代の禅は「純粋禅」となってしまう。つまり、「純粋禅」という呼称には学術的な問題があるのである。したがって、以下、特に「純粋禅」の呼称は用いない。

栄西における兼修の禅

 鎌倉時代の禅宗の展開は、大日房能忍、栄西を嚆矢とする。能忍については、詳しくは他の論考に譲るが、鎌倉末期撰述の『元亨釈書』の栄西伝が伝えるところでは、能忍は弟子を中国に派遣し、臨済宗大慧派の拙庵徳光から達磨像を伝授され、日本での禅布教をはじめたが、嗣承や戒検の無いことを誹られたとされる。達磨宗は栄西ともに布教停止の宣旨を受け(百練抄)、後に四散したとされるが、残った系統の多くは、後に現れる道元の門流に合流し、その門流を支え、吸収されていった。
 また、栄西は天台僧であったが、2度目の入宋中に天童山の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の禅の法脈を受け嗣いでいる。栄西が帰国後に、禅とともに真言・天台を兼ね修していたことは、『元亨釈書』の栄西伝に記された伝聞の情報である。しかし、栄西の『興禅護国論』巻下にも、真言院と止観院に関する規則が記され、中世の建仁寺の伽藍図には真言院と止観院が描かれている。栄西は禅と真言・天台を兼修していたと見て問題なかろう。
 栄西がどのように兼修していたのか。この点を考える前に、次の問題点を提示したい。すなわち、栄西がなぜ兼修という形をとったのかという点である。栄西の『興禅護国論』は天台宗からの批判に答える形で執筆したものとされる。天台宗に如何に対峙するか。それは、この時代に天台宗に所属しつつ一宗としての独立を願う僧侶(法然・栄西・道元)にとって大きな問題であった。真言院と止観院の設置はこの点をも踏まえたものであろう。

禅宗は諸教の極理、仏法の総府

 また、『興禅護国論』巻上では、「禅宗は諸教の極理、仏法の総府なり」と記し、『興禅護国論』巻中では、「鈍根の人」が「諸教諸宗の妙義を伺い、禅の旨帰を学ぶ」ことは「修入の方便」であると記している。これらの記述からは、栄西の兼修は禅布教のための方便と読み解ける。そして、栄西の『斎戒勧進文』(1204年)の末には、「委曲は願文の旨なら并びに興禅論に在り」と記され、建仁寺建立以後も『興禅護国論』の立場を棄てていない。さらに、以降に撰述された『日本仏法中興願文』と『喫茶養生記』には、『興禅護国論』の立場に関する記述はない。したがって、これを否定する新史料が発見されない限り、栄西の著述からは、栄西は『興禅護国論』の立場を保持していたと看做すことができる。
 ちなみに、栄西の新発見史料は、栄西自筆の手紙を除いて、どれも禅の法脈を受け嗣ぐ前のものであり、新発見の史料がどれほど貴重であっても、帰国後の栄西における禅の展開を考える上では用いることができないことは注意しなければならない。

道元・円爾による宋朝禅の導入

 栄西の最晩年に参じた門人に道元がいる。道元は、栄西寂後は栄西高弟の明全に参じ、長らく建仁寺で修行し、建仁寺僧として入宋し、天童山景徳寺で曹洞宗如浄の法を受け嗣ぎ、帰国後、建仁寺に戻った。その後、建仁寺を出て、宇治興聖寺の開山となる。道元の禅は、独自の禅風を加味してはいたが、基本的には天童山の宋朝禅を導入しようと試みていたようである。
 道元の『正法眼蔵弁道話』には、禅僧が「サラニ真言止観ノ行ヲカネ修セン」ことに妨げがあるのかとの質問に対し、道元は中国の指導者から「仏印ヲ正伝セシ諸祖」で「カネ修」した人がいないと聞いたことを記している。道元は栄西の如き兼修という形はとらなかったことは広く知られているが、結果として比叡山側からの排斥にあうこととなった。道元自身は積極的に深山幽谷の地を目指し、京都を離れて越前永平寺の開山となるが、兼修しない布教形態が、まだ京都の地では難しかったことを示している。
 円爾は入宋して径山の無準師範の法を嗣ぎ、帰国後に京都東福寺の開山として迎え入れられた。東福寺は、もともと禅寺として建立されていたわけでなかったが、円爾が開山となり、中国禅林の形式が取り入れられた。禅林としての形態を有しつつ、真言院や止観院が建てられ、真言宗や天台宗の祖師像も安置され、真言僧や天台僧も常駐した。この状況は、現在、研究者が「兼修禅」と呼称している状況である。
 一方、巨大な東福寺にあって、当初の東福寺山内には真言・天台の顕密僧として3人が置かれ、禅僧集団は100人であった。禅・真言・天台のどれが中心であったかは明白である。すなわち、「兼修禅」という呼称からは、禅と真言と天台を等しく修していたかのような印象を受けるが、当時の東福寺の状況からはあくまで主流は禅であったことが窺える。
 鎌倉後期の『雑談集』巻九に、東福寺が「〔当時の〕常の禅院よりも事の行(多)をほし」と記されている。円爾は「日本の僧」が、「坐禅の行疎略」ゆえに、「事の行」すなわち「事相」(口に陀羅尼を唱え手に印相を結ぶ)を多く修したようであるが、密教儀礼を兼ね修する状況は、決して鎌倉時代後期の一般的な禅院の状況ではなかったようである。

渡来僧による宋朝禅の導入

 この時代の中心となっていたのは、渡来僧や入宋僧を中心とし宋朝禅を兼修せずに行ずる勢力であった。この時代をして、「渡来僧の世紀」と呼称される所以である。蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元と続く渡来僧の流れは、鎌倉を中心として展開し、また、京都建仁寺をはじめ、京都の禅寺でも中国僧による禅が行われた。天台僧から禅僧となった日本僧とは異なり、渡来僧はそもそも真言・天台を兼ねることはできない。そして、その渡来僧たちに学んだ禅僧たちがさらに全国に展開していったのである。
 鎌倉時代には多種多様な形態の禅が確認でき、また各地で禅と密教を兼修した僧が確認されるが、ほぼ一過性のものであり、その後の継承がほとんど見られない。さらに、鎌倉時代の禅籍のほとんどを占める禅語録に禅密の兼修が記録されておらず、全体的にそのことを論ずる史料が少ない以上、中世禅林で禅と密教の兼修がどれほど行われていたのかはよくよく考えなければなるまい。

瑩山紹瑾による栄西への評価

 曹洞宗では、瑩山紹瑾が栄西を「純一ならず、顕密心の三宗を置く」と評しているし、その門流をはじめ中世の曹洞宗では、栄西が「専ら禅宗を志」したものの「時節未だ到らざる」旨が記された切紙(栄西僧正記文)が継承され続けた。それらの記事からは、自分たちの禅は「純一」であることを示そうという意図が読み取れまいか。瑩山紹瑾は加持・祈祷を積極的に行ったし、後に多くの禅寺で加持・祈祷などの密教儀礼が行われるようになるが、余行としての加持・祈祷は、当時の曹洞宗では「兼修」として位置づけられていないことになる。
 本論ではひとまず、「兼修禅」の一例として真言院と止観院の並置に着目した。しかしながら、冒頭で述べた通り「純粋禅」という呼称自体、多分に問題を含むものであり、それに対置される「兼修禅」もまた、改めて定義すべき概念であると考える。「兼修禅の再評価」をするためには今後さらに関連文献を博捜し、当時の禅宗界の状況を広く見ていく必要があるだろう。




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