寝惚之眼覚
自筆本は未見である。巻末に「寛延第二丁午四月仏生日」とあるが、寛延年間に丁午はない。午年が正しいならば、寛延三年庚午となるが、いずれにしても、寛延二年ないしは三年の作ということになる。
文中には「原の親父の片手の声」「観音菩薩と申すのは、音を観との事ぞかし、是は則ち隻手の音じや」などと白隠創作の隻手音声の公案のことがある。また、巻末の「維時円融無相元年、真如満月、唯有一乗日」云々の記は、白隠の『宝鏡窟之記』にあるのと同じものである。その内容からしても、白隠の著述であることに疑いはない。
品玉つかいの大道芸人が大江戸に出てきて、面白おかしく口上を述べる、という趣向ではあるが、その軽妙な戯作の調子とは対照的に、内容はまことに厳しい、当世の学者(儒者)、そして宗教界への批判である。