花園大学国際禅学研究所
    
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【白隠フォーラムin東京】講演録
2008/2/14

芳澤 勝弘 「新出の白隠禅画いくつか」

花園大学の芳澤と申します。まず最初に、どういう目的でこのフォーラムを設けたか、それから今後の展開とかそういったことについてお話しさせていただきます。そしてその後に、最近見つかった白隠禅師の禅画、ほとんど知られていないようなものもあるんですけれども、大変興味深いものが幾つかございますので、時間のある限りその画像を見ながら、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

白隠禅師という方は、今から約240年前に亡くなられました。あと10年でちょうど没後250年。禅宗では50年ごとに遠忌といって、大きな法要が営まれますが、10年後はちょうど250年遠諱です。

白隠禅師はまた「五百年間出」、500年に一人しか出ない名僧といわれています。白隠禅師がお亡くなりになって250年ですから、そのあとには、もっとすごい禅僧がもしかしたら出て来るかもしれない、そういうことも期待して、これからの10年間、いろんな形で白隠禅師を研究し顕彰し、新しい価値を見出していくような活動をしてまいりたいと思っております。

 

白隠禅師という方は、おびただしい著作を遺されております。『槐安国語』、そして膨大な漢文語録である『荊叢毒蘂』など、さらに、これまた多くの仮名法語と、いっぱい遺されているんですね。それが、先ほどトーマスさんのご紹介にあったように、これまで、ほとんど手つかずの状態だったのじゃないか、そういう感じがいたしております。ですから、これからまだまだいっぱい解明して取り組んでいくべきことがある、そういう素材だと私は思うんです。もしこういう方面に意欲のあるお若い方がおられたら、今から始められたら、必ずや第一人者になれます。競争率ゼロですから。そういうおつもりで若い人は頑張っていただきたいと思います。

白隠禅師がお亡くなりになって100年目は、ちょうど明治が始まった年なんです。この間の100年間、江戸時代にどれぐらい白隠がちゃんと評価されていたのかどうか、これもはなはだ疑問なんですね。明治になって、「坐禅和讃」という漢字仮名交じりの和讃が宗門で唱えられるようになったり、臨済宗の「中興の祖」ということで大変尊敬されるようになった。けれども、研究ということになると、さほど進められてこなかったと思うんです。今や明治から140年、100年以上も遅れているのですが、これから研究をしていきたいと思っている次第でございます。

白隠禅師は漢文語録や仮名法語だけではなく、墨蹟や禅画と呼ばれるものをおびただしく書き遺されております。私どもの研究所では4年ほど前から、全国に残っているそういった資料を網羅的に調査しようという活動を始めました。これまでにほぼ2000点を調査し撮影することができました。その他にフィルムの状態で遺されているのが500ほどあることを把握しております。従って合わせますと2500点ほどあるわけですね。しかし、同じ文句のものをたくさん書いたりしていますから、それを全部カウントしますと、最低でもこれの倍、あるいはその3倍、もしかしたら1万点ぐらい残っているんじゃないか、そういう感じがいたします。

本日は、その墨蹟の中でも特に禅画と呼ばれるもの、それを中心に考えていきたいと思っております。禅画というのは美術史のほうでも定義がさまざまあるようですけれども、うんと広く考えるならば、室町時代ころ禅林の中で、あるいは禅林の周辺で作成された絵画、そういう具合にとらえていいかと思います。

しかし、もっと狭い意味で考えるならば、画と文を使って、極めて禅的なメッセージを伝えようとするものが禅画だろうと、私は思うんです。禅僧が描いたから禅画というわけではない。近世でも禅僧がたくさん画を描くことはあった。達磨の画なんか、多くの禅僧が描いておられますが、それが直ちに狭い意味での禅画といえるかどうか。これもこれからの検討課題ではないかなと思います。

そういう狭い意味での禅画というものを描いている方は、白隠禅師以外には極めて少ないのではないかと思うんです。逆に言うと、白隠禅師の禅画というのが、いかにユニークであるかということが言えるかと思います。これは後ほど、図を見ながら検証してまいりたいと思います。

室町時代には水墨画賛というものがたくさん描かれて遺されております。これはまず画があって、そして上のほうには必ず文字が書かれている。室町の頃でしたら、だいたい漢詩が書かれている。そういう形式になっております。ずっと下って白隠禅画もやはり画と文句が書いてあるわけですね。極めて少ない例外として文字が書いてないのもございますけれども、大体そういう形式になっている。

つまり画と賛、画と文字が共存しているわけです。多分、西洋にはこういう画はないんじゃないか。挿画とかイラストレーションというのは西洋でもございますけれども、今言ったような意味で画と文字が共存している、そういう表現方法は多分ないんじゃないか。おそらく東洋の特徴だと思います。中国にもございます。

そして、画に描かれた内容と、上に書かれた文字とが相互に影響し合い、干渉し合っている。あるいは関係しながら意味を増幅している。そういう形式になっている。そこが大変面白いんじゃないかと思うんです。

本日、このフォーラムを開いた一つの目的は、このことと関係があります。私は禅の文献や語録に興味をもって研究しておりますけれども、そういう私どもの分野と、絵画の歴史、絵画を学問的に研究している美術史の人たちと、大いに連携して一つの素材をさまざまな角度から取り上げて研究していければと、そういう願いを持っておりました。それを試みる一つの手段として、本日のフォーラムを設けたわけです。

画賛というものは画と文字があって、それが相互に関係し合って意味を増幅している。それと同じように我々の研究も、それぞれ違った分野のものが参加して、そして新しい意味を発見していく、そういうことが必要ではないか、そう考えている次第であります。

室町時代の禅と白隠ということを申しましたけれども、同じ「禅」ですからもちろん一貫した共通したものはある。しかし、大きく違うところもある。室町時代の禅といえば、五山文学です。鎌倉に五山があり、後に京都にも五山ができて、そこでさまざまな文芸活動、詩を作ったりした。そういう環境の中で絵画も営まれてきた。

室町禅林の禅とは何か。一言ではなかなか言えないことですが、あえて言うならば、「深山の仏法」というのが、その理想にあったのではないか。五山の寺はもちろん市中あるいは都の周辺にあったのですが、その精神というもの、水墨画に描かれる理想の境は「深山の仏法」だった。きわめて隠遁的で高踏的で、世俗世界からかけ離れたものを目指しているように思えるんです。

それに対して、200年、300年後に生まれた白隠さんのはどういう禅か。私は「十字街頭の禅」と申したいと思います。白隠禅師という方は、東海道原宿、今の沼津市原にお生まれになった。(白隠の生家については、下記サイト)

http://iriz.hanazono.ac.jp/hakuin/worldmap.html

折しも、江戸がどんどん発展して、まさに江戸時代が完成しつつある時です。白隠さんが生まれるちょっと前には、東海道という街道が整備され、そこを多くの人や物が行き来するようになった。参勤交代が制度化され、西国大名が江戸に行ったり来たりする。時には長崎の阿蘭陀人も通るし、朝鮮通信使も通る。そういう物流ならびに情報が行き来する幹線である東海道の宿場で、物流にたずさわる問屋という職業の家にお生まれになった。そしてまた、同じ宿場の街道に面した松蔭寺の住職になられたわけです。この環境はもう山の中ではない。まさに十字街頭なんです。

室町禅林の性格を別の言葉で言うならば「孤高」と言いましょうか、孤独で高い、そういった精神があると思います。それに対して白隠の禅を、あえて一言でいうならば「市隠」ということになりはしないか。市隠、町の中に隠れた隠者。そういう性格を持っていると思うんです。そのことは、白隠自身が『壁生草(いつまでぐさ)』という自伝の中で書いております。私は人や物や馬が激しく行ったり来たりする東海道の雑踏の宿場にある寺にいるけれども、私の心は山の中にあるのと同じだと、そういうことを言っております。市隠は「大隠は朝市に隠る」という中国の言葉から出ています。山の中に隠れているのが本当の隠者ではなくて、街の中に隠れているのが本物の隠者であると。白隠の禅の性格はそういうところにあると思います。白隠という名前が何を意味するのか、明確に書かれたものはありませんが、「白」は雪を頂いた霊峰富士山、「隠」はその富士山の裾にある原宿に隠れた市隠。そういうことではないかと私は思っているんです。

白隠は布袋和尚をたくさん描いております。布袋は中国に実在したお坊さんで、お腹が大きく出て、だらしない格好をして、大きな袋を担いでいる。山の中にいるんじゃなくて、いつも町中へ出ている。東京でいうならば渋谷や六本木へ出掛けるわけです。通行人の肩をポンと叩いて、その人がびっくりして振り返ると、「お金ちょうだい」と、つまり乞食のようなことをやっていた。けれども、亡くなった時に、本当は弥勒菩薩の化身で、人々に教えを示しておったんだということが分かる。そういう布袋さんを、さまざまな姿にしていろんな事をさせて、おびただしく描いているんです。そういうところに白隠の「十字街頭の禅」というものが標榜されているんだろうと私は思います。

つぎに、白隠禅画に書かれている賛、これがまた、『古今集』の和歌、あるいは古代の歌謡、室町頃に成立した謡曲あるいは狂言の文句、あるいは狂言歌謡、さらには民間で歌われる子守唄。日本文化を総覧して全部利用して使っている。さらには、同時代の流行歌、もっと変わったところでは、「大文字屋かぼちゃ」の賛のように、江戸で流行っていたPRソングをリアルタイムで使ったりしている。そういう点から見ると、白隠の禅画のある種のものは今どきの言葉で言うならばサブカルチャーと言ってもいいんじゃないかなという感じがします。

このような賛がつけられている白隠禅画は、おおむね「戯画」と呼ばれています。戯れに描いた画。まさのその通りなんですが、ただ文字通りに「戯れ」かどうか。それは上に書かれている言葉との関係があるわけです。そういう点で、私は戯画じゃなくて、「白隠漫画」と呼びたいと思っております。「北斎漫画」という呼び方もあります。戯画も漫画も、意味は同じことじゃないかと言われるかも知れませんが、漫画は、最近では立派な市民権を得て、一つのステータスを獲得したと思うんです。漫画専門の大学もございます。西洋でもそうでしょうが、特に一コマ漫画というのは昔から、非常に質の高いものを持っていたと私は思います。そういう積極的な、高い意味において「白隠漫画」と呼びたいと、私は考えております。これには異論もありますでしょうから、またご意見をお聞きしたいと思います。

※[以下は、禅画の解説の抄録です。画像をクリックすると高精細画像がひらきます]

これから後は、先ほど申しました「白隠漫画」と呼ぶべきようなものを幾つかご紹介したいと思います。
「百寿図」はよく見かけますね。中央に大きな「寿」という字が書いてありそのまわりに寿が百種類の字体で書かれている(左)。「寿」を白隠さんは「イノチナガシ」と読ませています。永遠の生命ということです。「百寿図」というものは白隠のオリジナルではなくて、もともとは中国にあったものです。おめでたい言葉ですから、求められてたくさん書いたんだろうと思います。しかし大変珍しい「百寿図」が出て来たんです。周りに百種の寿が書いてあるのは同じですが、真ん中の大きな寿字の代わりに、寿老人が描いてある(右)。寿老人は福禄寿とも言います。この寿老人が筆を手に持って、何かやっています。一体何をしているのか。字を書いている、賛が書いてあります。最後のところに、

福禄寿道人、依沙羅樹下老漢命、謹書了

とある。「福禄寿道人、沙羅樹下老漢の命に依って、謹んで書き了る」と読みます。沙羅樹下老漢というのは白隠のことですね。この寿老人が白隠さんに命令されて、この百寿の文字を全部書いたのである、ということを最後に書いてあるわけです。

これは大変面白い画であると私は思います。白隠さんは、私が「軸中軸」と呼ぶような絵を書いておられます、例えば、福神が軸を覗き込んでいるような絵です。軸の中に軸を描いて、福の神に見させたりしている。こういうのがたくさんあります。軸の中の軸に書かれている言葉は、金を積んで子孫に遺すも、子孫は未だ必ずしも能く護らず。書を積んで子孫に遺すも、子孫は未だ必ずしも能く読まず。如(し)かじ、陰徳を冥々の中に積んで、以て子孫久長の計を遺さんには。


無相寺蔵

お金を残しても子供は使っちゃう。子供にいくら本を残しても子供は読まない。そんなことをするよりかも陰徳を残しなさい、そうしたら幸せになれるぞ、ということが書いてある。こういう文句を福の神に見させている。恵比寿さんなんか、手をかざして一生懸命見ております。

こういう描画の工夫は、私は大変面白いものだと思うんです。画というのは平べったい世界ですけれども、その中に立体的に描く工夫がされている。恵比寿と大黒の二人は、軸中軸を前にされていて、軸を少しさえぎっている。そのことによって軸中軸に現実感・立体感を与えられている。また、恵比寿が額の上にかざした右手の構え方も、さらに立体的効果を出している。そして、軸中軸の中に関防印や落款が押されています。

私どもがこの軸を拝見するときには、どうしてもこの軸中軸の文句に注目することになります。何が書かれているのかなと思って、それを読もうとする。すると、そのときに我々はこの画の中にいっぺん入ったことになるわけです。そうすればつまり、福の神と同じように、同じ立場に立って福の神と一緒になって見ているということになるんです。つまり、この絵は二次平面の中に描かれているけれども、その二次平面を、我々は軸の外、つまり三次元の世界から見ている。三次元の世界にいる者を二次元世界に引っ張り込んだり、あるいはそこからはじき出して、そのことに気付かせようとしている。そういう工夫だろうと思うんです。

寿老人が描きこまれた百寿図も、この「軸中軸」によく似た効果を見る人に与えるのではなかろうかと私は思います。この福禄寿は白隠さんの命令によって、百の寿字を謹んで書き終えたところでありますよ、と書かれているのですが、これが分かると、そのときに私どもは大変面白いから笑うわけです。けれども、笑った後、冷静になって考えてみますと、この画賛を作った白隠その人が、この二次平面の紙の外にいるわけですね。そうして、これを見て笑っている我々もまた紙の外にいる。そういうように、二次平面の絵の世界と現実の三次元の世界とを行き来するような、そういう効果を意図しているんじゃないかと思います。大変面白い画だと思います。

次の絵、怖い顔をした人は鍾馗さんです。下にあるのは擂り鉢で、手に持っているのはすりこぎ。子供が擂り鉢を押さえて、何かを擂るのを手伝っている。擂り鉢の中には四匹の鬼がいる。鬼をすりつぶしているんですね。これなんか、まさに「白隠漫画」と呼ぶべきものだと思うんです。では賛には何が書いてあるか。


海禅寺蔵

鬼みそばかりはむごとふて、すりにくいものじや

とあります。「鬼味噌ばっかりは、どうもむごたらしいことをせねばならんので、すりにくいものじや」と鍾馗が言っているわけです。鬼味噌というのは、味噌に唐辛子や野菜などを入れてたもので、おかずのない時にそれをなめながらご飯を食べたり、お酒を飲む時にもなめたりする。

賛はこれだけではありません。子供のいるところに「鍾馗大臣の息子なり」とある。この小僧は鍾馗大臣の息子だぞと書いてある。そしてさらに、「とゝさ、鬼みそを、ちとなめて見度ひ」とある。これは子供のせりふですね。「父ちゃん、鬼味噌をちっとなめてみたい」と。

まさに漫画です。しかし、ただユーモアのある漫画だと、笑って見ているだけでいいかどうか。どうやら、いろんな意味があるように私は思うんです。擂り鉢の絵を白隠はたくさん描いているんですね。下の絵ではすりこぎの上で鳥がとまって鳴いている。賛には、

鶯に形(な)りが似たとてみそさざい

とある。ミソサザイという鳥が鳴いているところです。ミソサザイという鳥は、姿形はウグイスに似ていますが、その鳴き声は美しいものではなく、むしろやかましいくらいです。この画題のものは実にたくさん残されております。白隠禅画の代表作のひとつです。(ミソサザイの鳴き声は、下記サイトへ。音が出ます。音量に注意してください)

http://www.ne.jp/asahi/suzuhai/suzuhai/tanosimi/misosazai1.htm

これとは別の図柄のものもあります。この絵では、鳥が妙な形の物の上に止まっておりますが、これは一種のヘラ、杓子で「切匙(せっかい)」というものです。こういうものは、今では見ない道具ですが、擂り鉢で味噌を擂ったときに、このヘラでこそぎ落したりするのに用いたり、あるいは味噌を小さい器に盛り付ける時に用いた道具です。他人のことに口出しする人を「おせっかい」と言いますが、その語源だとも言います。昔の味噌屋はこの切匙を看板にしていたんです。先般、飛騨高山に行きましたときに、こういう看板のある味噌屋さんがありました。この絵の看板には何か字が書いてあります。「上々吉、麹みそ有り」。最上級の麹味噌がありますよ、と書いてある。この小さくてやかましく鳴くミソサザイという鳥が、一生懸命宣伝しているところなんですね。味噌とミソサザイをかけているのは、無論のことです。

このミソサザイは白隠なんです。「私はよい声で鳴くウグイスではございません、ミソサザイのような私ではありますが」と謙遜しながらも、白隠ミソサザイが、「いらっしゃい、いらっしゃい、どうぞお買い求めください。当店には最上極上の糀みそ(白隠禅)がございますよ。どうぞお試しください」と、看板をあげて大声で、手前味噌を宣伝しているところなんです。

先ほどの鍾馗さんの絵も、その意図するところは同じなんですね。いま見た三つの絵はすべて、白隠味噌店のコマーシャル・メッセージ、つまり白隠禅の宣伝です。日本語では「味噌を売る」という言葉があります、あるいは、自分の宣伝をしたりすることを「手前味噌」と言いますけれども、味噌にはそういう意味がございます。私の所に良い麹味噌があるからぜひなめてみなさいと、白隠禅を標榜しているんですね。

鬼を潰すということは、またいろいろに解釈できるでしょう。例えば、我々の中にある貪・瞋・痴といったものを滅して、本当の道に気づく、そういうことが白隠店舗で売る本当の味噌であるぞ。「鬼味噌」だから、ちょっと辛口であるが、それをちょっとなめてみなさい、と言ってるわけです。

そして子供に、「父ちゃん、鬼みそをちょっと私もなめてみたい」と言わせているのですが、この白隠禅画に出てくる「子供」というのは、やっぱり一つの象徴的な意味を持っています。衆生、一般の我々を、仏さまの立場から見たら子供ということで表すのだろうとと私は思います。これについては、もう一枚の絵を見てみましょう。

布袋さんが裾をたくしあげて、あられもない格好で川を渡るところですね。そして子供を肩車しております。子供が何やら前方を指さしております。そして賛には、

 

三つ子に習ふて浅ひ瀬をわたる所

とあります。これは諺ですね、時には未熟な者に教えられることもある、といった意味ですね。布袋さんが小さな子供に教えられて浅い瀬を渡っているところです。高い上のほうから見れば、何処が浅いかよく分かるわけですね。

白隠さんという方はどうも大変饒舌な方でございまして、この賛だけでさっぱり終わりということにはならない。他にもサービスでいろいろ書いてあるんです。こういう饒舌な賛があるから、それがヒントになった、ああ、そういうことだったのかと分かることがあるんです。

此(この)小僧は布袋の手のあひまち也

とこう書いてあります「あひまち」というのは、過ちということです。この小僧は布袋の手の過ちだと。手の過ち。手というのは厄介な人間の部品で、「女に手を出す」とか言いますが、そういった意味です。ですから、この小僧は布袋が女性関係で失敗してできた子だと言うんですね。その次の賛がまた面白いです。

其儘(そのまま)な貌(かお)也

隠せば弥(いよいよ)露(あらわ)る

「そのままな貌なり」。布袋の子供である証拠には、顔がそっくりじゃないかと。なるほど、瓜二つの顔をしています。そしてさらに「隠せばいよいよ顕わる」、これは経典にある言葉です。いやいや違う、わしの子じゃないと言っても、その瓜二つが証拠歴然じゃないかと、そういうことが書いてあるんです。

まったく面白い絵で、思わず笑ってしまうんですが、これもまた単に面白おかしいことを書こうとしたのか。私はそうじゃないと思うんですね。先ほど申しましたように、子供というのは、白隠においてはほとんど場合、衆生の象徴として描かれているわけです。先ほど冒頭でも申しましたけれども、布袋さんというのは十字街頭にいる、俗世間の真っただ中に出て教えを説く存在ですね。つまり。我々凡夫と仏の教えを説く人、在家と出家との関係を示しているんではないかと思うんです。その出家たる布袋と、衆生たる小僧をまるっきり同じ、そっくりな顔に描いている。それがどういう意味を持つのか。それに、この布袋と小僧との関係は、一種の「入れ子構造」みたいになっている。先ほどの「軸中軸」もこれもまた「入れ子構造」ともいえる。それがどういうことを意味しているのか、ということを考えているんです。まだ私の考えははっきり決まっていませんけれども。

ある仮名法語で白隠さんは、出家と在家との関係についてこういうことを言っております。

「そもそも、生死の家を出て見性するからこそ、出家というのである。頭を丸めて親の家を出るのを出家というのではない。ところが今時は、頭を丸めてさえいれば、自分は出家だと称して、在家を誑して供養を受けているのだ。世間では、誰でも家に在ってすぎわいをするのに、ことさらに在家(家に在る)というのはなぜか。在家とは出家に対して言うのである。在家の人たちは生活のために、農工商それぞれの仕事に励んで辛苦しているのだから、僧のように、もっぱら生死出離の一大事を究める修行をする暇はない。そこで、在家の人々は折々に出家に供養して、来生の勝縁を結ぶのである。であるから、出家たるものは大勇猛信心を奮起し、とにかく見性の眼を開き、不断に法を説いて、仏祖に代わって一切の人々を救済せんとするのである。だから、出家と在家とはいわば車の両輪である」と。

肩車されている子供が、布袋にそっくりな顔に描かれているのは、白隠布袋の教えに教化されているからでしょう。そして、出家と在家との持ちつ持たれつの関係、そんなことも意味しているかも知れない。そして、白隠の禅もまた、つねに世間で汗して働く農工商に教えられるところがあって、成り立っているんだ、自分だけが高みに立って凡俗を導いているのではないのだ、と。そんなふうに、この絵を拝見しているのであります。


霊洞院蔵

もうひとつの絵があります。これも「白隠漫画」ですよ。角があって怖い顔をしているのは雷神ですね、後ろに太鼓があります。手に筆を持ってまた何か書いています。その手前に男が畏まった風に座っており、その羽織には「福」という字が入っている。これもまた、例によって賛の文句を読んでいけば、少しずつヒントが出てくるわけです。賛には何と書いてあるか。
雷、風の三郎所へ、庄屋を頼み、状を遣(や)る所

とある。つまり雷神が書状を書いて、それをですね、庄屋さんに頼んで風の三郎の所に届けさせるところだと。前に畏まって坐って待っているのが庄屋さんです。風の三郎というのは、宮沢賢治に『風の又三郎』というのがありますが、これは風の三郎から来ているそうです。風の神様です。関東、東北、甲信越あたりは風の三郎さまを祀ったところもあります。つまり、雷神が風神に手紙を書いているということです。どういう事を書いているのかちょっと読みたくなりますよね(下)。

一筆令啓上候(いっぴつ、けいじょう、せしめそうろう)

ひかれば、雲どもに乍大義(たいぎながら)

迎ひ参候様(まいりそうろうよう)二御申(おんもうし)

風の三郎殿

と書いてあるんです。一筆啓上、私が光ったならば、それを合図に、大義ながら、すまんけれども、雲たちに迎えに来るように言ってくれ、そういうことが書いてある。「御申(おんもうし)」は、お出ましを願うときに用いる語です。

庄屋さんというのはどういう立場の方か。百姓の代表ですね。百姓の代表としてこの雷神の所にやって来ているんです。その用向きは何か。百姓は田んぼや畑で作物を作るのが仕事ですね。ですから雨が降らないと大変困るわけです。その代表である庄屋が雷の所へやって来たのは、他の用ではない、どうかひとつ恵みの雨を降らしてくださいということでお願いに来ているわけです。「しかし、そんなことを頼まれてもわし一人だけじゃ、雨を降らすことはできん。そこで風の神さま、あるいは雲たちに一筆書くので、ご苦労ながらそれを届けてくれ。そして皆一緒になって、雨を降らしてやろう」ということであろうと思います。

恵みの雨、仏教の教えのことを雨に譬えます。仏の教えを法雨とか慈雨などと申します。あるいは、そういう雨を降らせる雲のことを慈雲と申します。禅宗のお寺には慈雲寺という名前がたくさんありますけれども、そういう意味ですね。百姓にとって命の雨を降らしてほしい、慈雨を降らしてほしいということです。百姓というのは、昔はハクセイと読みました。白隠さんもそう読んでおります。もとは、農民だけではなく、いっさいの人々のことを意味した言葉です。これを仏教の言葉に置き換えれば、衆生ということになります。つまり、衆生のために慈悲の教えを垂れてほしい、ということを言っているのだと思うんです。もっと深読みすれば、いろいろに解釈することも出来るかも知れません。雷だけがいくら鳴っても雨は降らない。ゴロゴロと音ばかり鳴って、少しも雨が降らないのを「から雷」と言いますけれども、威勢ばっかりよくても、恵みの雨をほどこすことのできん「から雷」のような説法ではいかんぞ、真に衆生を済度できるようなものでなくてはいかんぞ、と言っているようにも思われます。まあ、そのへんは解釈と鑑賞はいろいろできるでしょうけれども、こういうふうな漫画みたいなものがいくつか新しく見つかったわけでございますが、これらはまさに白隠の「十字街頭の禅」を表わしたものではないかと思うのであります。以上で私の報告は終わらせていただきます。



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