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関連論文:『画賛解釈についての疑問』 |
【第1回】 「鵲噪鴉鳴」
白衣観音図 ([4]、40頁、一山一寧賛、光明寺蔵) 註釈者不明 聞思修入三摩地、不知坐在草窠裏。 鷄噪鴉鳴白日閑、法爾圓通應一切。 『禅林画賛』の解では、三句目「鷄噪鴉鳴白日閑」の註に、 「普通の表現では〈鷄鳴鴉噪〉。暁を告げる鷄のときの声と、夕暮れの とある。「普通の表現では」とあるから、この句が多くあるということであろうが、管見のかぎりでは「鷄鳴鴉噪」の用例を知らない。また「鷄○鴉△」の例も見出し得ない。 実は「鷄」は釈文の誤りで、正しくは「鵲」字である。したがって「鷄噪鴉鳴」は誤りで「鵲噪鴉鳴」となる。この句は禅語録ではしばしば見かける語であって、枚挙に遑がない。 (一)五燈會元卷一一、明州香山道淵禪師章上の二例はここでの例「鵲噪鴉鳴白日閑」の理解に参考にもなろう。 (一)では、カラスのカーカー、カササギのギャーギャー、それがいちいち妙音だという。「酒市魚行」と「鵶鳴鵲噪」、「頭頭寳所」と「一一妙音」が対になっているところから見て、「鵶鳴鵲噪」は「酒市魚行」と同質のもの、いわば聖なるものの対極として理解されるべきものであろう。 (二)では、鐘のカーン、鼓のドン、鴉、鵲のカーカー、ギャーギャー、これらが般若を説いているという。 いま、この頌のいうところは、鴉、鵲のカーカー、ギャーギャーの中でも、何の影さわりもなく(白日)、「閑」だというのである。『江湖風月集』巻一、四明大川済和尚の「金剛大士相」詩に、 大士應身三十二、一身三十二重非(大士の應身三十二、一身三十二重は非なり)。東陽英朝の『江湖風月集略註』の註に「第三四の句は端的底の觀音を露わす。鵲噪鴉鳴の上、即ち是れ觀音常住の正體なり。楞嚴に曰く、此れ方に眞の教體、清淨にして音聞に在り、と。音聞は觀音入理の門なり」とあるが、この頌においても「鵲噪鴉鳴」は同じ意味で使われていよう。 別源円旨『東帰集』の觀音贊にも「梵音清雅、鵶鳴鵲噪。普門豁開、入也好不入也好」とある(『五山文学全集』巻一、778頁)。 初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)
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