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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第2回】 「依眞而住」
普賢菩薩図
([14]、60頁、蔵山順空賛、光明院蔵) 註釈者不明

象王背上讀斯經、無限功薫施異生。
示現□□如見得、任眞而住孰難明。


依眞 第四句、『禅林画賛』では「任眞」と読んで、「その本来性のままに」と註し、「その本性に任せて住したもう故、その住処はどうして明らかにしにくいことがあろう」と訳す。「任眞」は、『漢語大詞典』(巻一、1203頁)には「聽其自然。率眞任情、不加修飾」とある。「自然のままにまかす。情のおもむくまま、飾らずに」という意味の俗語である。
 しかし、原本の字体をみるに「」ではなく、むしろ「」ではないか。すなわち「依眞而住」となるが、これは『華厳経』巻第七に「普賢身相如虚空、依眞而住非國土(普賢身の相は虚空の如し、眞に依って住す、國土に非ず)」とあるのに基づくものである。ならば、「任眞」という俗語とは何らかかわりがない。

 『円覚経略疏註』巻下には「生公云、佛有形累、託土以居。佛是常住法身、何須國土(佛に形累有らば、土に託して以て居せん。佛は是れ常住法身なり、何ぞ國土を須いん)。故華嚴云、依眞而住、非國土」とある。形累は肉体のこと。「仏に肉身があるならば、国土に居するであろうが、仏は常住の法身なのだから、国土を必要とはせぬ。だから『華厳経』にも〈眞に依って住す、國土に非ず〉と言うのである」ということであろう。また 『華厳経』巻第三には「普賢身相、猶如虚空。依於如如、不依佛國。現身無量、普應衆生(普賢の身相は猶お虚空の如し。如如に依り、佛國に依らず。身を現ずること無量、普く衆生に應ず)」とある。「依於如如」は「依眞」と同じ趣旨を言ったものである。「如如」は「眞如」である。

 ちなみに、禅宗で行なわれて来た四七日仏事回向の要文には、「普賢身相如虚空、依身而住非國土、隨諸衆生心所欲、示現普身等一切」とある。これは、亡者が四七日に審判を受ける五官王(十王の一人)の本地が普賢菩薩だからである。古くから通用しているのは「依而住」ではなく「依而住」であるが、経典の意味するところからすれば、「身」は「法身」の意と解すべきか。あるいは単純な誤りか。いずれにしても、『華厳経』の語が、普賢菩薩に因んで用いられる例として挙げるまでである。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/04/30