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関連論文:瓢鮎図・再考 |
【第2回】 詩二 (玉畹)梵芳
瓢壓鮎尾、可以羹之。 (瓢もて 奈何無飯、欲把沙炊。 (飯無きを 玉畹梵芳(生没年不詳)。夢窓派、南禅寺住。自らも画をよくした。 「把沙炊」は、禅録に出る「蒸沙成飯(沙を蒸して飯と成す)」の語をふまえるが、もとは経典に出る語である。 『楞厳経』巻一(15)に「諸もろの修行の人、無上の菩提を成ずるを得ること能わず、 同じく巻六に「是の故に阿難よ、若し婬を断たずして禅定を修するは、沙石を烝して其の飯と成らんことを欲するが如し、百千劫を経るも祗だ熱沙と名づくるのみ」とある。 上の用例では「縦い塵劫を経るとも終に得ること能わじ」「百千劫を経るとも祗だ熱沙と名づくるのみ」という部分が義(ココロ)を表わしている。つまり「いつまでたっても不可能」「未来永劫不可能」ということである。 この賛詩には一種のユーモアがないではないが、必ずしも単なる言葉の遊びが目的ではない。禅録で用いられるときは、経典をふまえて、誤った方法論をいうことが多い。瓢箪で鮎をおさえるというような誤った方法では、さながら沙を炊いて飯にするようなもので、永遠に不可能だというのである。 【訳】鮎をおさえて、吸い物にしたらいい。 だが、飯がなければしようがない。沙を炊いて飯でも作るのか(そんなことは、未来永劫無理)。 初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)
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