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関連論文:瓢鮎図・再考


【第8回】 詩八 (□□)昌慶

塗油、捺鮎急流。 (瓢上に油を塗り、鮎を急流におさう)
捺来捺去、捺不得休。おさえ来たり捺え去り、捺え得ずしてきゅうす)

詩八 太白真玄(?〜1415)、一山派。
絵に描かれた川は急流には見えない、むしろサラサラ流れる春の小川のようである。それなのに「急流」という語が用いられているのはなぜか。禅録に頻出する「急水上打毬子」「急流水上打毬子」の語をふまえ用いたからである。『碧巌録』八十則に、
僧、趙州に問う「初生しょしょう孩子がいし た六識を具するやいなや」。趙州云く「急水上に毬子を打す」。僧、復た投子に問う「急水上に毬子を打すの意旨は如何」。子云く、「念念不停流」。
とある。『禅林方語』(52)にいうように「急水上打毬子」のココロは「念念不停流」、すなわち一念として留まることなく、急流を流れる毬のように次から次へと心がはたらくことをいう。

『碧巌録』同則の評唱で圜悟は解説して「早是すで転轆轆てんろくろくなるに更に急水上に向かって打する時は眨眼たちまちに便ち過ぐ」という。普通の状態でさえ、毬はコロコロとしているのに、急流ではなおさら動きは早くなる。このように「急水上打毬子」もまた、心の性情を表現する言葉として用いられているのである。

 第四句「捺不得休」、『禅林画賛』では「捺へて休むを得ず」と訓じ「捺えどおしでやめられぬ」と訳しているが、ここでは「捺え得ずしてきゅうす」と訓じたい。「休」は「休歇」であろう。詩一四に「捺著何時休歇」、詩二七に「□昔□□当下」とあるのと同じで、「念念馳求の心」が歇得するところである。

二祖の例でいえば、「覓心不可得」と分かったところである。しかも「不可得」のままに終わったのではなく、馳求する心が妄心であると分かって、そこで初めてあまねく行き亘っている真心の存在を悟ったのである。

【訳】瓢箪に油を塗ってツルツルにして、それでもって、急流に泳ぐ鮎を抑える。
あっちから抑え、こっちへと抑える。(結局)抑えられぬと分かったところで(求める心は)む。
初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】

  1. 『禅林方語』(禅文化研究所刊『禅語辞書類聚』所収、31頁)「急水上打毬子―念念不停流」。

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 Last Update: 2003/09/15