ホーム > 研究室 > 五山文学研究室 > 関連論文 > 瓢鮎図・再考 (目次) > 第21回
研究室 |
関連論文:瓢鮎図・再考 |
【第21回】 詩二一 (聖徒)明麟
捺著葫蘆転轆〃、
(捺著すれば、葫蘆は 聖徒明麟(生没年不詳)、法灯派。建仁寺、南禅寺住。 「覓無蹤」は、心を求めても没蹤跡、姿かたちも、何の手がかりもないことをいう。 『貞和集』巻二に収録される霊叟□源の二祖頌に「覓心心已覓無蹤(心を覓むるも、心、已に覓むるに蹤無し)」とあるが(64)、これは二祖慧可が「覓心了不可得」と言ったところを頌したものである。 いまここでも「心(鮎魚)をおさえようにも何の手がかりもない」という意である。 四句「鼓風雷飛化龍」は「登龍門」の故事をふまえる。この三、四句では、「鮎魚上竹竿」と「登龍門」とは同じ意味で用いられている。上れるはずのないナマズが竹に登り、龍に進化するはずのない鯉が龍へと変身するところである。 先に引いた『宗鏡録』巻四十三に「二祖、縁慮不安の心を求むるも得ず、即ち唯一の真心の円成して周徧せることを知って、当下に言思道断す」という消息であり、一切に周徧している唯一真心に超入するところである。
【訳】(水辺で)瓢箪をおさえてもコロコロするばかり、鮎をおさえようにも手のつけどころもない。 初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)
|
【注】 |
▲page top |