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関連論文:瓢鮎図・再考


【第25回】 詩二五 (子瑜)元瑾


詩二五

直把葫蘆欲捺鮎、 (直に葫蘆を把って鮎をおさえんと欲す)
太麁生処渉廉繊。太麁生たいそせいの処、廉繊れんせんわたる)
等閑瀝盡涎三斗、等閑ゆくりなくしたたり尽くす、涎三斗)
可笑身不得黏。 (笑う可し、身を終うるまで得ずしてねんたることを)


子瑜元瑾(生没年不詳)、大覚派。建仁寺住。

「太麁生」は「はなはだ荒っぽい」。「渉廉繊」は、『虚堂録犂耕』(66)に無著道忠いわく「心、微細に渉って造作するなり」。荒っぽいようでいて、なかなか繊細。

「等閑」は『虚堂録犂耕』では「疎略、尋常」とするが、ここではその意では必ずしも通じない。『禅林画賛』では「徒らに」と訳しているが、なお未穏。「等閑」ははなはだ広い意味をもつ言葉である。ここでは「ゆくりなく」とみ「不意に」と訳す(67)

「涎三斗」、『禅林画賛』注に「たくさんのよだれ。作者元瑾の念頭には、杜甫『飲中八僊歌』の〈汝陽は三斗にして始めて天に朝す。道に麯車に逢へば口は涎を流す〉があったと思われる」とするのは非である。

杜甫は「酒三斗」を言っているのである。訳には「だが徒らに三斗もの涎を流し尽くすだけで、それで鮎をへばりつけようにも一生叶わぬとは笑止の沙汰」とあるから、男が(酒を想像しながら)涎を垂れ流してそのネバネバで鮎をくっつける、ということのようであるが、かかるナンセンス・ギャグはこの詩画軸にふさわしくはない。

冒頭の大岳周崇の序に「無鱗多涎之鮎魚」とあったように、涎はヨダレではなく魚の表面の粘液の義と解するのが自然だろう。ナメクジの這った跡を蝸涎というごとし。

「可笑終身不得黏」、「黏」には「ねばりつける」意があるが、男が自分の涎でくっつけることが不自然であることは上に見た。あるいは、鮎の粘液を利用して瓢箪にくっつけるとも解せるが、全体の意が通じない。よって「身を終うるまで得ずしてねんたり」と訓む。次の【第26回】に「魚尾は甚だ粘たり」とある「粘」と同じであろう。


【訳】瓢箪でいきなり鮎をおさえようとは、はなはだ荒っぽい手口だが、きめ細やかな気配りもそこにはある。
だが(鮎は)不意にネバネバを流す。結局、捉えられず、(鮎が)いつまでもネバネバとはお笑いだ。

初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】
  1. 禅文化研究所版、『虚堂録犂耕』178頁。
  2. 「等閑」。『詩轍』巻六(江戸中期の漢学者、三浦梅園の撰。鳳出版『日本詩話叢書』第七巻所収)に「等閑ハ、ナヲザリト訓ズ、何トモナキ意ナリ、尋常也ト注スレドモ、意少シカハリアルベシ、瀟湘何事等閑帰(瀟湘ヨリ何事ゾ等閑ニ帰ル)、等閑識得東風面(等閑ニ識得ス東風ノ面)ノ類、不用意也」と。ここは「ふいに」という気味。
    「ゆくりなし」は、小学館『日本国語大辞典』に「〔一〕予想もしないようなさまである。不意である。突然である。思いがけない。〔二〕かるはずみである。不注意である」。

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 Last Update: 2004/04/27