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関連論文:瓢鮎図・再考


【第28回】 詩二八 (古幢)周勝

他家非是掣鰲手、他家たけは是れごうせいするしゅに非ず)
提起葫蘆費力多。葫蘆ころを提起して力を費すこと多し)
果尓鮎魚捺不住、果尓はたして鮎魚をおさとどめず)
無端平地鼓洪波。はし無くも、平地に洪波を鼓す)


詩二八

古幢周勝(1370~1433)、夢窓派。等持寺、相国寺住。

「他家」は「かれ」、図中の男である。「掣鰲手」は、『碧巌録』五十二則、雪竇の頌に「入海還須釣巨鼇」というところ、すなわち任公子の故事をふまえる。

先秦の人、任公子は巨大な釣り針と糸を用意し、これに五十匹の牛を餌につけ、東海に竿を垂れ、やがて巨大魚を釣り上げたという(71)。同じく「漁」にかかわる故事ゆえ、ここに引き用いているのである。

「平地鼓洪波」は「波なきところによけいな波を起した」。『碧巌録』第五十五則、頌の下語に「平地起波瀾」。「平地」は「平白地」、本来無事のところである。

 龍泉令淬(?~1364)『松山集』に「安庭」道号頌がある(72)。「安庭」は、本論の冒頭に引いた二祖断臂立雪の話に因む命名である。その頌にいわく、

断臀[臂]求心平地瀾ひじって心を求むるは平地のなみ
誰知至道本無難。(誰か知らん、至道は本と無難なることを)
清光一段階前月、(清光一段、階前の月)
誤作当年積雪看。(誤って当年そのかみ積雪のかんす)

神光(二祖)はわが臂を断ち切って、達磨に心を安んぜんことを求めたが、いらざる波風を起こしたというものであろう。至道はもともと難しいことではないのだ、と。神光は煩悶して、心を求めたが結局、「心を覓むるも不可得」と言ったではないか。

 いまこの詩の四句で「無端平地鼓洪波」というもの、同じ趣旨である。心(瓢箪)で本来心(鮎)をおさえるのも、いらざる波風を起こすようなものだと。


【訳】この男、任公のような力量人でないのに、瓢箪をふりあげても無駄なこと。
やっぱり、鮎をおさえられず、すまじきによけいなことをしただけ。

初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】
  1. 『荘子』外物篇に「任公子、大鈎巨緇をつくり、五十犗、以て餌と為し、会稽にうずくまり、竿を東海に投じ、旦旦にして釣る。期年にして魚を得ず。已にして大魚之を食らい、巨鈎を牽いて、陥没して下り、驚揚してひれを奮う。白波は山のごとく、海水は震蕩し、声は鬼神にひとしく、千里に憚嚇たんかくす。任公子、の魚を得て、きて之をほじしにす。淛河以東、蒼梧已北、の魚にかざる者し」。
  2. 『松山集』(『五山文学全集』第一巻、601頁)。


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 Last Update: 2004/06/23