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関連論文:瓢鮎図・再考


【第29回】 詩二九 (叔英)宗播

手捉鯷鮎力有餘、 (手に鯷鮎を捉えて力余り有るも)
元非細網可能漁。 (元より細網の能く漁する可きに非ず)
出身路在一瓢下、 (出身の路は一瓢の下に在り)
應笑龍門點額魚。 (応に龍門点額てんがくの魚を笑うべし)


詩二九

叔英宗播(?~1441)、一山派。真如寺、南禅寺住。

『禅林画賛』では「素手で鮎を捉えてまだ余力がある。もともと目の細かい網などでは獲れるはずもないのだ。どう突き抜けて出るかの道は、一箇の瓢箪に秘められている。龍門で額に傷をつけて引き返す魚など、笑止の沙汰だ」と訳す。

一句の「鮎を捉えてまだ余力がある」と、二句の「もともと目の細かい網などでは獲れるはずもない」とは不整合であるし、しかも主客が判然としないために、鮎をとりおさえたのか、そうでないのか、全体の意味がわかりにくい。

島尾氏はこれを受け解釈を拡大して、「男は手で鮎を捺えてまだ力が余っている。もともと細かな目の網などでは捕れるものではない。しかし実は瓢箪の下にこそ自在に生きる道がある。龍門を上ろうとして失敗し額を打って帰ってくる魚などお笑い草だ」と解し直している。

氏はまた、この詩を「捺えられる→自在と逆転」としているから、鮎は一旦、男に抑えられたものの、そこからさらに鮎が逆転すると解しているようである。これでもなお、「点額」の魚を笑うのは誰なのかが判然としない。

 鯷はオオナマズの意味であるが、この「鯷鮎」は、いま図に描かれている鮎のことをいうのかどうか。既に画面の鮎がおさえられたというのならば、二句の「元非細網可能漁」の意味するところは一句を承けにくい。一句にいう「鯷鮎」は、画面の鮎とは別の魚のことをいうのではないか。『捜神記』巻十九には、孔子が陳で厄にあったとき、九尺あまりもある大鯷魚が出てこれに悩まされた話がある(73)

子路、之を引いて手を没す。地に仆る。乃ち是れ大鯷魚なり。け九尺余。孔子曰く、此の物や、何為なんそれぞ来たる。吾れ聞く、物老ゆる則は群精之に依ると。……

孔子の弟子子路がオオナマズと格闘した話である。これをふまえて「手捉鯷鮎力有余」と言い、『捜神記』と同じ「鯷鮎」という字を用いたものではないか。その子路を上まわるような力があったとしても、この(描かれている)ナマズは細網などで捕れるシロモノではない、ましてや瓢箪では、と。

 「出身路在一瓢下」。「出身」は、禅録では大悟、身心脱落など高次の意味でも用いられるが、もともとは「抜け出す」という意に他ならない。ここも、瓢箪におさえられても、その下から鮎がスルリと抜け出し、龍門の滝を登ってしまったことを言い、その上でさらに「大悟」「身心脱落」を含意する。点額の魚を笑うのは瓢箪を持った男ではなく、スルリと逃げた鮎である。

「出身路在一瓢下」は、【第4回】「擬得鮎魚、待跳上竹」、【第6回】「一瓠蘆下、急著眼看」、また【第16回】「一朝遭胡盧捺、應待有龍門登」のところでふれたように、「不可得」とわかったときに、法界にあまねくいきわたっている真心がわかる、という趣意である。「一瓢下」とは、その「不可得」ということがわかるポイントをいう。


【訳】この男に、(孔子が悩まされたという九尺余の彼の)大鮎をおさえつけてまだ余力があるとしても、この鮎は通常の網で取ることはできぬシロモノだ。
おさえつけた瓢箪の下から、鮎はスルリと抜け出して(竹竿に上り)、龍門の滝を登り損ね、落ちて傷を負った落第の魚どもを笑うであろう。

初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】
  1. 『捜神記』巻十九。また『太平広記』巻四六八にも引く。
    孔子厄於陳。絃歌於館中。夜有一人。長九尺余。著皂衣高冠。大吒声動左右。子肯進問、何人耶。便提子肯挟之。子路引出。与戦於庭。有頃未勝。孔察之、見其甲車間時々開如掌。孔子曰、何不探其甲車、引而奮登。子路引之没手。仆於地。乃是大鯷魚也。長九尺余。孔子曰。此物也、何為来哉。吾聞物老則群精依之。因衰而至。此其来也。豈以吾遇厄絶糧、従者病乎。夫六畜之物、及亀蛇魚鼈草木之属久者、神皆憑依能為妖怪。故謂之五酉。五酉者五行之方。皆有其物。酉者老也。故物老則為怪矣。殺之則已。夫何患焉。……

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 Last Update: 2004/06/30