【第1回】 はじめに
文字絵というのは、文字を用いて描かれた戯画のことで、我々がよく知るのは「へのへのもへじ」である。古いところでは「ヘマムシ入道」というのがあり、「青蓮院には四百年以前のものがある」(『遠碧軒記』下)というから、その起源は室町時代にさかのぼることになる。
『嬉遊笑覧』には「宝暦ころ童の翫びの草子に、文字絵とて武者などの形を文字にてかき頭と手足をば絵にてかきそへたるものあり」(巻三)とあるので、江戸時代になるとかなり多様な文字絵が流行っていたことが伺われる。
ところで、わが白隠禅師の描いた画の中に、この絵文字で描かれたものが二種類ある。「人丸像」と「渡唐天神像」とである。この二種ともに、花園大学歴史博物館に尤品が架蔵されているので、白隠のこの文字絵の意味について考えてみたい。
上に引いた『嬉遊笑覧』にはまた、次のようにいう。「古きものには天神の二字にて菅家渡唐の像を画き、人丸の二字にて柿本の影をうつす、是はもと真言僧の木筆にて梵字をかきて仏像を作るより出たり」(巻三)と。
『嬉遊笑覧』は文政13年ころの成立であり、著者の喜多村信節は1783~1856、白隠よりおよそ百年あまり後の人である。「古きもの」がいつのころかは分からないが、この随筆では少なくとも室町期以前を言っていることが多い。
これによれば、天神・人丸の文字絵も、ともに白隠の創始というわけではなく、それ以前からよく行われていたのである。ただ、その古い文字絵は「天神の二字」、「人丸の二字」で像を描いていたということであるが、白隠の描くものは、「南無天満大自在天神」の九文字で天神像を描いたもの、そして後者は「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に……」という和歌の文字で人丸を描いたものである。この和歌で衣紋線を描くことは白隠以前にもあったものである。
初出『季刊 禅文化 188号』(禅文化研究所、2003年)
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