【第2回】 人丸図について
柿本人麻呂は『万葉集』の歌人であるが、生没年、経歴ともに詳らかなことは分かっていない。その作歌は三百数十首とされるが、人麻呂に仮託されたものも多いという。
『古今和歌集』仮名序、真名序では「歌仙」としてまつり上げられるが、以来、宮廷を中心とした和歌の世界でこの傾向が強まり、平安末期には人丸影供といって、歌会が行われるにあたって、まず人麻呂像をかかげ、これに香華供物をそなえる儀式が執り行われた。人丸影供の起源は、『十訓抄』十、二によれば、次のようなことである。
粟田讃岐守兼房といふ人有りけり、年比和歌をこのみけれど、宜しき歌もよみ出ださざりければ、心に常に人丸を念じけるに、あるよの夢に、西さか本とおぼゆる所に、木はなくて梅花ばかり雪のごとく散りて、いみじくかうばしかりけるに、心にめでたしとおもふほどに、かたはらに年たかき人あり。
直衣にうすいろの指貫、紅の下袴をきて、なえたる烏帽子をして、ゑぼしの尻いとたかくて、常の人にも似ざりけり。左の手に紙をもて、右の手に筆を染めて、物を案ずるけしきなり。
あやしくて誰れ人にかとおもふほどに、此の人いふやう、年比人丸を心にかけ給へる、其のこころざし深きにより、形ちを見え奉る、とばかりいひて、かきけち失せぬ、夢さめて後朝に、絵師をよびて、此の様をかたりて、かかせけれど似ざりければ、たびたびかかせて似たりけるを、宝にして常にをがみければ、そのしるしにや有りけん、さきざきよりもよろしき歌よまれけり。
年比ありて死せむとしけるとき、白河院に進つりたりければ、ことに悦ばせ給ひて、御宝の中に加へて、鳥羽の宝蔵に納められにけり。
人丸像のお蔭で和歌がすっかり上達したというのである。『十訓抄』は建長四年(1252)の成立で、上の話は、白河院(1053~1129)の時のことである。
また『古今著聞集』五、二六には次のようにいう。
元永元年六月十日、修理大夫顕季卿、六条東洞院亭にて柿本大夫人丸供をおこなひけり。くだんの人丸の影、兼房朝臣夢みてあたらしく図絵する也。左の手に紙をとり、右の手に筆を握りて、とし六旬ばかりの人なり、その上に讃をかく、(漢文の讃あり、省略)ほのぼのとあかしの浦の朝ぎりに 島かくれゆく舟をしぞ思ふ、……。
元永元年は1118年、鳥羽天皇の時代である。
「ほのぼのと……」の歌は、『今昔物語集』巻二十四では、小野篁が隠岐国へ流刑されたとき、明石を通った時に詠んだ歌であるとする。しかし、『古今集』巻九では「このうたはある人のいはく、かきのもとの人まろがうた也」とし、同仮名序でも人麻呂の歌とする。以降、人麻呂作というのが通説となり、もっとも人口に膾炙していった歌である。
歌会の時には、まず最初にこの歌を朗詠してから始められた。『古今著聞集』五、二六や謡曲の『草子洗小町』の冒頭にはそのさまが描かれている。
「ほのぼのと……」の歌は古来、秀歌の最たるものとされ、平安中期、藤原公任の歌論集である『和哥九品』では上品上に位置づけされている。
人麻呂の生涯はほとんど謎であったために、古くからさまざまな伝説が多く、さらに俗説が付加されることになった。和歌の神であったのとは別に、「安産」と「火除け」の神にもなったのである。
「安産」の神となったのは「人丸」と「懐妊(ひどまり)」とのつながりによる。『后宮名目抄』上、六に「そもそも御火とまりと……申しけるは、女人はなべて経水のおこなはるヽ事、一月としてをこたることなく、十四の年よりかくの如し。
されども懐胎のこヽろばへおはし侍れば、さやうのおこなはるヽことやみ侍るなり。なべて后宮のことわざに、経水を火と名付け来たることは、対屋に出で、別火をかまふることよりおこりける。
経水おこなはれねば、対屋に出ず、別火をかまへねば、御火とまりとは申し侍る」とあるが、「人丸」を「火止まる」あるいはまた「火どまり」にかけたものである。
ところで、白隠の人丸図賛には、もうひとつの歌が書かれている。
焼亡は かきの本まで 来たれども
あかしと云へは 爰に火とまる
とある。焼亡(ショウモウとも)は火事のことである。筑摩書房の圖録『白隱』153の解説で、竹内氏は妙心寺の異僧、般若房の和歌「和誐也登乃 加幾乃 毛登末弖也計貝留遠 般若棒仁弖宇弖婆比登末留」(『正法山誌』巻六)による、と指摘している。
般若房宗煕は、鉄船老人とも号した。義天の嗣。美濃鵜沼の人。幼時に大般若経の函を踏む夢を見て般若房と名のった。かつて郷里で火事があり、自分の家に及ぼうとした時に、
わが宿の牆のもとまで焼け来るを
般若棒にて打てば火とまる
と詠じたところ、火は隣家まで来て止まったという。
細川勝元が龍安寺を造営している最中に、般若房はその門に「普請頻々少参学、天生風顛以触忤(普請頻々、参学を少く、天生の風顛、以て触忤す)」と大書し、さっさと郷里の岐阜に帰り、般若房を営んで隠逸の生涯を送った。同じく、岐阜の鵜沼にいた、還俗僧の漆桶道人こと万里集九と親交があった。
竹内氏の図像解説で「膝上の灯火は般若棒」であるとするのは誤りである。『古今著聞集』がいうように「右の手に筆をとつて」いる図柄であるから、「灯火」や「棒」ではなく筆でなければならない。長沢本をみれば、「き」の字の先が筆になっていることが分かる。
白隠の人丸像の賛には、この般若房の歌が書かれている。「人丸=火止まる」という民間の俗信を受容したものではあるが、白隠は単に火除けの呪いだけを目的として、この絵を描いたのではあるまい。
御伽草子『小町草紙』では、この歌を仏教的に解釈して次のように言っている。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ、と詠じ給ひし歌も、衆生のためなり。明石の浦とは、衆生の迷ひの心なり。島隠れ行くとは、三界流転の心なり。舟をしぞ思ふとは、大慈大悲の、あはれみ給ふ心なり」。
曖昧模糊とした霧の明石を彷徨いゆく舟のすがたは、さながら苦海を流転する衆生のようなものであり、それを済度しようという、大慈悲のこころを詠ったものだ、という解釈である。
では、白隠が人丸図を描いた趣旨は那辺にあるのか。長沢本「人丸像」には次のような賛偈がある。
歌道明神何化身 歌道の明神、何の化身ぞ
是非菩薩仏歟神 是れ菩薩に非ざれば、仏か神か
到今明石浦朝霧 今に到り明石の浦の朝霧に
有嶋有船無其人 嶋有り船有るも其の人無し
白隠の語録『荊叢毒蘂』、および仮名法語などの著作には、人丸に関する詩文はないし、また墨蹟の中にも、これ以外の賛詩は見られない。したがって、白隠が人丸図を描いた意図を測り知るための資料はこれだけということになる。
『小町草紙』では、人丸の歌を仏教的に解釈していたが、白隠もまた、当然のことながら、この歌を仏教的にとらえていたことが考えられるのである。
歌道の明神、何の化身ぞ、
是れ菩薩に非ざれば、仏か神か。
今に到り明石の浦の朝霧に、
嶋有り船有るも其の人無し。
一・二句、人丸明神は実は、観音菩薩の化身だという。船は仏教では、船筏の喩、迷える衆生を、此の岸から彼の岸へと渡すための方便とされる。つまり『小町草紙』に言うところと、ほぼ同じことを白隠は言っているのである。今もなお、人丸の時代と変らずに、渡り行くべき島が見えるのに朝霧に碍えられて行けそうもない。乗るべき船もあるのに、「其の人」の姿は見えない、というのだが、この「其の人」という表現は『小町草紙』には見えぬものである。
実はこの「其人」の二字があるからこそ、白隠のオリジナルとなり、禅的メッセージになるのである。七賢女のひとりが屍を指して「屍は這裏に在り、人は甚の処に向かってか去る」(『五灯会元』巻一、釈迦牟尼仏章)と言った、その「人」のことであり、また髑髏図の賛によく書かれる「形骸在此、其人何在(形骸は此に在り、其の人は何くにか在る)」という「其人」のことである。
つまり、其の人とは、主人公である、白隠の言葉でいえば主心であるし、本来の面目坊といってもよい。朝霧に煙った曖昧模糊たる中を島隠れしつつゆく舟、そこのところに、一大真理があるのだが、そこを見て取る者は、なかなかおらない。そこのところに、禅の唯一の目的である、心の所在が顕れておる、それを見届けよ、といいたいのである。
「ほのぼの」は「仄々」である。まだ光が薄くて、物がはっきりと見分けられない、いわゆる「ほのぼの明け」の状態で、しかもそこに朝霧が煙っていて、さらにいっそう見分けにくい光景である。
禅語に「誰知遠煙浪、別有好思量(誰か知らん、遠き煙浪に、別に好思量の有ることを)」というのがある。はるか彼方、靄でけむり、水天一色となった(ちょうど瀟湘八景のごとき山水)ところ、そこによくよく思いを致すべきものがあるが、そのことに気づく者がいくたりあろうか、といった意味である。
この語は碧巖録の下語にも出るものだが、白隠の『碧巌録秘抄』では次のように注をしている。「須磨明石ノ風景ハ、歌人デナクバ哀レヲ知ラヌ。アノ雲ノ下ヨ我ガ親里ジャ。名歌デナクテハ分ラヌ」。ここに人丸の名は明記はされていないが、いうまでもなく、「ほのぼのと……」の歌のことを言っているのである。
初出『季刊 禅文化 188号』(禅文化研究所、2003年)
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