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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第5回】 「班」「立班」「両班」「排班」
洞山禅師図
([34]、102頁、岳翁蔵丘筆、題者不詳、静嘉堂文庫美術館蔵) 註釈者不明

洞山价禪師初遊方、與密師伯者偕行。經長沙龍山之下、見溪流菜葉。价囘瞻峯巒深秀、謂密曰、箇中必有隱者。乃並溪而進十許里、有老僧癯甚。以手加額呼曰、此間無路、汝輩何自而至。价曰、無路且置、菴主自何而入。曰、我不曾雲水。价曰、菴主住山幾許時。曰、春秋不渉。价曰、菴主先住耶、此山先住耶。曰、不知。价曰、爲什麼不知。曰、我不曾人天來。价曰、得何道理、便尓住山。曰、我見泥牛鬪入海、直至而今無消息。价即班密之下而拜之問、如何是主中賓。曰、青山覆白雲。又問、如何是主(賓)中主。曰、長年不出戸。又問、主賓相去幾何。曰、長江水上波。又問、賓主相見、有何言説。曰、清風拂明月。价再拜求依止。老僧笑曰、三間茆屋從來住、一道神光萬境閑。莫作是非來辨我、浮生穿鑿不相關。於是深入層峯。

洞山禅師図

『禅林画賛』では、「价即班密之下而」に「文意通ぜず。この五字を削除した方がいい」と註している。先ずは、ここに書かれた一字一画を尊重して解釈する姿勢がなくてはなるまい。ところが、この五字の意味の究明を放棄して、難解の責めを作者に負わすのみならず、削除せよというのである。粗暴な手法と言わざるをえまい。

 この「流菜」の話はよく知られたもので、『五燈會元』潭州龍山和尚章では、次のように記録される、
……洞曰、和尚得何道理、便住此山。師曰、我見兩箇泥牛鬪入海、直至于今絶消息。洞山始具威儀、禮拜。便問、如何是主中賓。……。
すなわち「始具威儀、禮拜。便問」とあるところを、ここの賛では、より具体的に「班密之下而拜之問」と書いてあるのである。「班」は「立班」「両班」「排班」の班で、班次に従ってならぶことである。したがって、訓は「密のしもしもに班して」となろう。密は「密師伯」とあるように先輩であるから、洞山はその次に並んだのである。本図はそこのところをよく描き表わしている。

 また「价即班密之下而」の註のつづきには「以下に続くのも僧密との対話ではなく老僧(龍山和尚)との対話」とある。つまり、註釈者の解するところによれば、洞山は山中の老僧と、冒頭の問答をしたのちに、今度は僧密のところに戻って、僧密を拝して、僧密に「如何是主中賓」と問答をしかけた、ということのようである。そうではあるまい。いったい、洞山が龍山(老僧)に逢ったというこの話は、『景徳伝灯録』や『五灯会元』に出る、よく知られた話である。その話を絵にし、かつそれに賛をしたものである。註釈者が指摘するような誤りが起こるはずはないのである。洞山は、老僧が「泥牛鬪入海、直至而今無消息」と言うのを聞いて、僧密の下に並んで、威儀をととのえ、改めて老僧(之)に「如何是主中賓」と質問したのである。すべては、「この五字を削除した方がいい」という、誤った過信から惹起された誤謬である。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/04/30