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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第4回】 「多了」
山水図
([71]、205頁、破墨山水・雪舟等楊筆、了庵桂悟賛、東京国立博物館蔵) 註釈者不明
詩五、
能畫雪舟師、予舊識也。因拙語示的嗣如水知藏。
如水不波心是水、有雲生谷迹同雲。
阿翁毫末渾多事、今古江山説與君。


渾多了 第三句、『禅林画賛』では「多」と釈文しているが、原本の字体を見るに、「事」と読むのは無理で、「了」と読むのが穏当である。すなわち「多」である。したがって「多事」に註して「余計なことをやるおせっかいな、というのが本義だが、ここではそれをいい意味に転じてやり過ぎるくらいに心配りする老婆心が旺盛という意」とし、「雪舟翁の筆先は全く行きとどいた配慮を示していて」と現代訳するのは正しくない。

 三四句は、「阿翁の毫末、渾て多了、今古の江山、君に説與す」となろう。 「君に説與す」は昔風に訓むなら「君がためために説く」としてもよいし、その方がここでは分かりやすい。

 「多了」は「多すぎる」の意で、語録では「(和尚)已多了也」(しゃべりすぎだ)などという形で出る言い回しである(『諸録俗語解』[一八三]参照)。「渾」は「まったく」。そして、現代訳では「古今を通ずる悠久の江山をその筆で君に説いているのだ」としているから、「毫末」を絵筆のことと解しているようだが、そうではなくて、「毫末云々」は、雪舟がこの絵の上部に書いた二百字を越える叙のことを言う。

 この画は解説に言うように「明応四年三月中旬、雪舟はこの山水を描き、図上に二百字に及ぶ叙文を書きつけて、画学を修したことを証するしるしとして、弟子の如水宗淵に本図を与えた」ものである。したがって三四句の意味するところは、「雪舟翁は二百字以上もの序を記しているが、それは多すぎるというものであろう。なぜなら、ここに描かれた風景が既に君のために充分に語っているのだから」ということであろう。いわば印可証明に傚って画法の伝授をしたものであるが、描かれた破墨山水だけで付法のことは充分事足りている、二百字に及ぶ叙文は「多了」だと言うのである。この画賛では、詩三でも重大な解釈の誤りがあるが、それは【第20回】「莫作平沙落鴈圖」「瀟湘八景」で取り上げる。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/04/30