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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第6回】 「湛入合湛」
湛碧斉図
([83]、258頁、筆者不詳、愚極礼才序および詩、香雪美術館蔵) 註釈者不明

題湛碧齋畫軸
吾聞播之河北一州之大觀也。負於青嶂、抱於蒼海者、瑞龍菴也。菴臨滸眼、而盤渦匯于履mojikyo_font_030206之下。主翁本飽參老將mojikyo_font_000179[f]。不欲顯名於州府。□枯雲水、疏泯煙霞、拘折[a]主丈、高掛鉢嚢。賈禪之餘、□而命畫史冩邊垂之勝mojikyo_font_015363、作一mojikyo_font_009148、借筆於埜禿、需禪齋之榜字。乃披之睹之、與所聞如合符契[c]。海氣鴻濛、曳乎竹塢梅枝、山色黯澹、潤乎琴牀書棚。宜哉扁之湛碧。仍草湛碧齋三篆字於其上、兼綴小辭於軸際。夫碧者深青[b]。白相襍色也。青含體未露之。衆[d]白表用已。分之義也。茲二者、散而不離、混而不一、湛然明白。是人々自性天眞處、是[e]恐誤作湛入合湛之會。主翁必善於此旨、如何如何。作一偈、露此面目云。念々無生[g]湛然、渺茫碧海浸青天蒼波不礙得來[h]、一曲漁歌破水烟。愚極叟書


『禅林画賛』のこの画賛には読みにくい箇処がいくつもある。原本を熟覧して釈文を確定したいところだが、印刷で見た限りでの疑問を以下に列挙しておきたい。


拗折
[a]折主丈」とあるが、「拘」「拗」の誤読。すなわち「折主丈」である。


与 [b]「夫碧者深青。白相襍色也」を「夫れ碧なる者は深き青なり。白のあいつどふ色なり」と、二つの文にして訓じているが、「焉」は「mojikyo_font_050712(文字鏡50712)

焉  原本の五行目に「焉」字があるが[c]、それとは字体が異なっている。すなわち、「夫碧者深青mojikyo_font_050712白相襍色也(夫れ碧は深き青と白との相いまじわる色なり)」となる。


象 [d]「青含體未露之。衆白表用已。分之義也」を「青は體を含みて未だ之を露はさず。白をあつめて用を表はすのみ。分かつの義なり」と、三つの文として訓じているが、「衆」と読まれた字は字体からして「象」字であろう。すなわち「青含體未露之、白表用已分之義也」ではないか。右の二例の典拠はいま不明だが、検討課題としてあげておく。


「也」の古字 [e]「是人々自性天眞處、恐誤作湛入合湛之會」を「是れ人々の自性天眞なる處、是れ誤りて湛入合湛の會を作さんことを恐る」と訓じているが、「是」と釈文した字は「也」の古字である「mojikyo_font_000179」にも見える。


「也」の古字 [f]原本二行目に「mojikyo_font_000179」字あり。「也」ならば、「是人々自性天眞處。恐誤作湛入合湛之會」と二文になる。


嘗 [g]「念々無生湛然」を「念々無生、當に湛然たるべし」と訓じ、「一瞬一瞬に無生の理を悟って水のごとく湛然そのもの」と訳している。しかし「當」字は「嘗」にも見える。「嘗」ならば、「念々無生、つねに湛然」となり、「寂常湛然」という義になる。『蘇東坡文集』「書海南風土」に「吾湛然無思」とある。


來去
[h]「蒼波不礙得來」、□は(往)とし、「蒼い波は障りにもならず自由に往来できて」と訳しているが、□は字形からして「去」字の方が近いであろう。


 ところで、「湛入合湛」に註して、「このままでは全く意味をなさない従って訳しようがない漢文の拙なさだけの問題ではなく発想そのものの未熟さに主な原因がある」と決めつけているが、「湛入合湛」の語は、もっとも人の目に触れるところでは、『碧巌録』八〇則、本則評唱に、「又楞嚴經云、湛入合湛、識邊際」と引かれているものである。

 『楞厳経』巻一〇に「阿難、是の五受陰は五妄想の成なり。汝今、因界の淺深を知らんと欲せば、唯だ色と空とは是れ色の邊際なり、唯だ觸及び離は是れ受の邊際なり、唯だ記と忘とは是れ想の邊際なり、唯だ滅と生とは是れ行の邊際なり、湛をカエして湛に合するは、識の邊際に歸す」とある。

『碧巌録種電抄』にいわく「上の湛は六識、即ち見精、聞精等。下の湛は八識の湛體。精明元と是れ八識の所分なり。今、識精を凝らして妙湛に合して六入相い冥す、是れ其の邊際なり」と。
視聴覚などに分散した湛然常住を意識を収約して、もとの湛然たるところに戻すことであるが、このような状態もなお識の分際にとどまるものに過ぎない。だからここで「恐らくは誤って湛入合湛の会を作す」というのである。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/06/24