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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第8回】「渭陽獵」「渭川獵」「獵渭非熊」
山水図
([101]、323頁、筆者不詳、江西龍派題詩、個人蔵) 註釈者不明

鳥自高飛魚自沈、逍遙適性各寛襟。
白頭不待渭陽獵、烟棹風簑今日心。


 『禅林画賛』では「渭陽獵」の註に「……渭陽の獵とは渭水で釣りをしていた太公望をいう。但し釣りをするのを獵というのは和習の語。獵は魚獣を狩ること」とする。

太公望が釣糸を垂れていたのは渭川である。しかし「渭陽獵」は「太公望の釣り」を言うのではなく、太公望を発見するきっかけとなった、周の西伯の出獵をいうのである。

いったい、江西龍派ともあろう人が、註釈者が批判するような、初歩的な誤りをおかすはずはあるまい。したがって、訳でいう「白髪となった私は渭水の北で釣り糸を垂れようなどとは思わぬ」ということではなく、「自分の輔弼の才を見出してくれることになる、西伯の出獵を待っているわけではない」ということであろう。

 ちなみに、『漢語大詞典』には「獵渭」の語をおさめ、黄山谷の「次韻奉送公定」詩の「獵渭非熊螭」を用例にあげている。李白の「贈銭徴君少陽」詩にも「如逢渭川獵、猶可帝王師」とあるが、「渭川獵」は渭川でをすることでなく、渭川のあたりでをすることである。いずれも西伯と太公望の故事をいう。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/06/24