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五山文学研究室

関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第10回】 「閣盃待」「擱筆」「閣筆」
山水図
([116]、355頁、伝岳翁蔵丘筆、横川景三賛、畠山記念館蔵) 註釈者不明

童子掃門松竹中、梅花無日不春風。
主人有客閣盃待、倚杖山前華髮翁。


【第10回】 「閣盃待」  『禅林画賛』では「閣盃待」の註に、「すこぶる硬直した修辞で和習の表現としても異様である」とし、「主人には客があり、たかどの盃をもって待っている」と訳す。

 画面の建物が「たかどの」のように見えるから、それにひきずられたのであろうか。「閣盃待」の三字の中に、「(盃を)もつ」の義はどこにも見出せない。上の現代訳では「盃を手にして客の到着はまだかまだかと待っている」とも取れるのだが、詩人の意図とは異なろう。

いったい高士を主人公とする画図で、そのような卑しん坊のこころが詩になることはあるまい。横田忠司氏は解説で「この美しい景境の中で老人が親友と高雅な詩酒の交わりをかわすという情景は一つの理想の世界」といわれる。それがまた詩趣というものであろう。酒なくんばあるべからず。ただ、目的は高雅な清談であって、酒はその席のための不可欠な添え物である。

 この「閣」を「たかどの」と解するのは無理である。「閣」はしばしば「擱」と同義で用いられる。擱筆を閣筆というがごとし。その場合の「閣」は「置放」「さしおく」義である。既に書を書き終えて筆を置くことを「擱筆」ということは周知のとおりだが、「筆を執らずに放って置く」「ほったらかしにして置く」ことも「擱筆」と言う。蘇東坡の「西新橋」詩に、
嗟我久閣筆、不書紙尾鷖ああ、我れ久しく筆をさしおいて、紙尾のえいを書かず)
五山の四人の禅僧による東坡詩註釈である『四河入海』にこれを解して言う、
一云、……我レ本ト書字ヲ以テ金ヲ得ルコト、(王)羲之ガ紙尾鷖字ヲカイテ、其ノ價十餘萬ニアタリタガ如クニアツタゾ。然ルニ今、已ニ筆ヲ閣ク程ニ、金モ亦タ不可得ゾ。
「久閣筆」とあるから、「しばらくの間、筆を執って字を書いて稼ぐことをしていない」という義である。

 いまここの詩で「閣盃待」という「閣」も同じ用例であろう。客があるから、酒盃の準備をしなければならぬが、今はまだ「盃も放ったまま」で待っているというのである。既に酒を飲んでいた盃を置いたのではない。以下は、解釈である。

 三四句「主人有客閣盃待、倚杖山前華髮翁」、ここに「有客」とあるのは、既に建物に入っている一人のことと見てよいだろう。上に引いた部分写真では分かりにくいが、建物の内では二人の人物が相対して坐している。横田忠司氏は解説で、画面では「既に客と対面している主人」を(詩では)「主人、閣に盃もて待つ」と表現していると、詩と画との矛盾を指摘しておられるが、この「客」が先客であるならば、その矛盾も解消しよう。もし三句目の「客」が新来の客を指すのであれば、四句でもさらに「倚杖山前華髮翁」と、新来の客を具体的に言うことになり、表現が冗長に過ぎることになりはせぬか。

 既に一人の客人があるが、新たな客人の到着を二人して待っているのだ。「主人客有るも盃をさしおいて待つ」と訓んでもよい。「待」は新来の客にかかる。主人は、三人揃っての清談を心待ちにしており、先客も同じ気持であろう。用意すべき「盃はさしおかれた」ままである。待たれるのは高士どうしの清談であり、酒はその場に必須の要件だが、三者が揃うまで「閣かれて」いるのである。

 万里集九の『梅花無尽蔵』三上、「小画軸」の賛(『五山文学新集』第六巻、788頁)に、
度橋琴客聽松行(橋を度る琴客、松を聽きつつ行く)
細冩要加絃上聲(細冩せんならば、絃上の聲を加えんことを要す)
二老南樓捲簾待(二老、南樓に簾を捲いて待つ)
新飜和月耳須傾(新飜、月に和して耳須らく傾くべし)
この小画軸そのものは残されてはいないが、おそらくは、ここの山水図とよく似た図柄であろう。楼上の二人が、琴を携えた客の到着するのを待っているところである。新曲を聴いてのちの鼎談は興ひとしおであろう。新飜は新曲。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/06/24