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関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第13回】 「劈開眞面目」「劈開面門」「誌公擘破面門」「公案圓成」
観音図
([9]、49頁、筆者不詳、徹翁義亨賛、真珠庵蔵) 註釈者不明

劈開眞面目、當宇宙現前。聲光落々、威氣衝天。圓通刹海、普門三千。以此神力、能度無邊。咄。度誰々度、飛瀑散玉公案圓。正平七禩二月十八日午尅、隱士徹翁義亨有感拜贊

 『禅林画賛』では「劈開眞面目」の註に「観音の示現するありさま。〈劈開〉は切り開いてみせること」とあり、「スパッと本来のすがたそのものを押し出して」と訳している。「劈開」は「つんざき開く」、註に言うように「切り開いて(みせること)」であるが、訳に言う「押し出す」までの義はあり得ない。ここではむしろ「つんざき開く」意を訳にも反映させ、なぜ「劈開」の語が使われているのか、その説明があるべきであろう。

 「劈開眞面目」は、画家僧繇と異僧寳誌の故事をふまえた表現である。『編年通論』六、梁天監二年に、
(武帝)嘗て畫工の張僧繇に詔して寳誌の像を冩さしむ。僧繇、筆を下さんとするに、たやすく自ら定まらず。既にして(寳誌)指を以て面門をmojikyo_font_002152いて分披して十二面觀音を出だす。妙相殊麗、或いは慈、或いは威。僧繇、畢に冩すこと能わず。
異僧寳誌は観音の化身であったために、さすがの僧繇ほどの腕前の画家でも、その真面目を描くことができなかったという有名な話である。禅録ではこれをふまえて、頂相など真面目を表現することに掛けて用いられることが多い。「スパッと本来のすがたそのものを押し出して」という訳は、結果的に大きく誤っているわけではない。けれども「劈開眞面目」という表現は、以下の例で見るように、禅林では寳誌と僧繇の故事をふまえていることが常識であったのだから、それに言及すべきであろう。
此の一瓣の香、爐中に爇向ぜっこうして、我が堂頭法兄禪師のために供養したてまつる。伏して願わくは、方廣座上に於いて、面門を擘開ひっかいし、先師の形相を放出し、他の諸人のため描邈みょうばくせんことを(『五燈會元』卷一九、提刑郭祥正〈淨空居士〉章)
浄空居士の話は『虚堂録』の上堂でも取り上げられており、無著道忠の『虚堂録犂耕』(禅文化研究所版、1045頁)では、「面門を劈開することは、誌公の事に託す」と解している。次に日本での例をあげる。
看看、玉巖士、即今向一炷烟中、劈開本來面目(東陽英朝『少林無孔笛』考玉巖宗金居士小祥忌辰語)
…更有描不就畫不成底一著子。…直得令誌公擘破面皮掛斯堂、億々萬劫作國家鎭去(玄圃靈三『玄圃藁』〈冩本〉所收「見桃院殿諸佛事」の内、建仁寺鐵叟の「掛眞」の語)
などと見える。後の例は「描けどもならず畫すれども成らざる」真面目を、誌公のような名手をして擘破せしめ、その頂相をこの堂に掛け、永劫に国家を鎮護していただこう、という意である。

 また夢窓国師の頂相には「本質尚如幻、影像是何容。欲見我眞相擘破太虚空(本質は尚お幻の如し、影像、是れ何のかたちかたちぞ。我が眞相を見んと欲せば、太虚空を擘破せよ)」という同じ自賛が書かれたものが幾つかある。

 さらに、白隠『荊叢毒蘂』の「和陽春和尚壽影賛」の序には、
「鼇背之參上座、需丈方之惟肖。辭澁不聽。轉辭轉需。歸來展唐紙、雖師不曾爪開面門無地下筆。……
(鼇背の參上座、丈方の惟肖を需む。辭澁すれども聽かず。轉た辭すれば轉た需む。歸り來たって唐紙を展ぐるに、師、曾て面門を爪開せざると雖も、筆を下すに地無し。……)
とある。白隠が四十九歳の時に描いた「陽春和尚像」のことを言っているのだが、上の意は「陽春和尚は、誌公のように、面門をつんざい(て観音の相を出だし)たわけではないが、私(白隠)にはどうにも筆を下すことができなかった」というのである。惟肖は肖像画のこと。

 最後のところの「飛瀑散玉公案圓」の註に「最後に公案を持ち出すところは、〈禅臭〉がふっ切れていない気がする」とあるが、これは何を意味しているのであろうか。註釈者は、「公案」=「禅臭」と考えているようだが、もし、すぐに「禅問答」めいたことを言うのを「禅臭」と批判しているのであれば、この詩においては、その批判は的はずれである。ここで「飛瀑散玉公案圓」と言うのは、何も具体的な公案話頭を言っているわけではない。解説で大西昌子氏は「ここには、瀧、即ち自然そのものに佛性の宿りを見る、禅家のいわゆる〈現成公案〉の考えが明確に打ち出されている」と述べているが、穏当な解釈であると思う。このことからも、本書『禅林画賛』では、語釈・現代訳と解説とは別人によるもので、解釈が判然と分かれているらしいことが分かる。

 『大應録』鏡圓上人請頂相の自賛に、「即此用離此用、馬祖一喝百丈耳聾。老僧取拂不開口、公案圓成徧界通」とあるが、「公案圓成徧界通」は「飛瀑散玉公案圓」と同じ方向の表現であろう。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/06/24