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関連論文:『画賛解釈についての疑問』


【第26回】 「一葉釣舟非馬之馬」「一葉舟中載大唐」
鍾秀斉図
([86]、270頁、賢江祥啓筆、個人蔵) 訳註大西廣、解説・山下裕二

(玉隱英璵)
……凡能畫能詩者、一般縮百億山河於方寸地、得形容妙、如芥納須彌□(焉)、胸次呑八九雲夢也。把茅眞樂、何人廬于茲乎。野橋横空未雨。何龍天入滄浪。一葉釣舟非馬之馬乎。……


鍾秀斉図  『禅林画賛』では「非馬之馬」に註して「全く稚拙な修辞。小さな釣舟が急流に乗って、疾駆する馬のように水上を駆けるのを、こう見立てたのであろう」といい、「そこに流されている一艘の釣り舟は、馬でもないのに馬のように疾駆している」と訳している。

 上に引いた序のいうところは、よい画、よい詩というものは、広大な大自然を方寸のところに圧縮し、須弥山を芥子粒に入れ、わが心の中に広大な雲夢沢を八つも九つもおさめるような、高大な気宇で描写されるものだ、ということであろう。そして、この絵に描き込まれた一艘の小舟はいわば「非馬之馬」であろうか、というのである。「非馬之馬」の典拠は『荘子』斉物篇。いわく、
以指喩指之非指、不若以非指喩指之非指也。以馬喩馬之非馬、不若以非馬喩馬之非馬也。天地一指也、萬物一馬也
(指を以て指の指に非ざるに喩うるは、指に非ざるを以て指の指に非ざるに喩うるに若かず。馬を以て馬の馬に非ざるに喩うるは、馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるに喩うるに若かず。天地は一指なり、万物は一馬なり)
言うこころは、「天地は一指なり、万物は一馬なり」にある。主客を超えた絶対の境地からするならば、天地は一本の指であり、万物は一頭の馬である、というのである。つまり、この絵に描かれた釣り舟が、「天地一指也、萬物一馬也」の馬だというのである。

 そしてまた、「一葉釣舟」といえば、『禅林句集』におさめられる「一葉舟中載大唐」という句が想起される。一艘の小舟に大唐一国、全世界を載せるのである。この語は『碧巌録』第五八則「趙州分疎」、頌の下語に出る。
象王嚬呻、獅子哮吼。無味之談[……分疎不下五年強、一葉舟中載大唐。渺渺兀然波浪起、誰知別有好思量]、塞斷人口。南北東西、烏飛兎走。
上の[ ]内が下語であるが、この四句は、白雲守端が「趙州分疎」の話を頌したものである。
『碧巌録種電鈔』では、「一葉舟中載大唐」に註して「無邊際の至道を含攝す」という。すなわち「芥子に須彌を納め」、「胸次に八九の雲夢を呑む」ところであり、また「萬物一馬」というのに同じ趣旨である。画面に描かれた小さな「一葉舟」は、さながら全宇宙をも包含する「一心」の象徴であり、後ろに描かれた峨々たる山、周辺の江水をも呑吐する存在の中心、この絵の眼目である、というのが玉隠英璵の理解であろう。
初出『禅文化研究所紀要 第25号』(禅文化研究所、2000年)

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 Last Update: 2003/06/24