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【第6回】 詩六 (惟忠)通恕
一瓠蘆下、急着眼看。 ( 若捺不得、飛上竹竿。 (若し捺え得ずんば、竹竿に飛上せん) 惟忠通恕(1349〜1429)、仏源派。建仁寺、天龍寺、南禅寺に住す。 『禅林画賛』で「急着眼看」の「看」に注して「動詞の後につけて、命令、勧誘、または意思を表わす。〈…してみよ〉〈…せよ、看ん〉と読むのは誤り」とするが、ここの「看」はそのような意味ではない。 「急著眼覰」の例があるように(51)、「看」は「覰」と同じく「みる」という動詞である。 『禅林画賛』の訳には「この一つの瓢箪の下を、ひたと睨みつけてみよ。もし捺えられねば、鮎は竹の幹に飛び上がるだろう」とある。直訳すればこういうことにならざるを得ないのであるが、この詩の意味するところは鮮明ではない。 島尾訳は「瓢箪の下をしっかり見据えた方がいい。捺えるのに失敗すると、鯰は竹に上ってしまうだろう」とする。 既に見て来たように、ナマズをおさえるとは、「求心」、心とは何かと推究することである。そして、心とは本来とらえられないものであるというのが仏教の立場なのであるから、このナマズを竹上に逃さずに、一瓢蘆下に取り抑える具体策を述べることが賛詩の目的となることはあり得ない。 先の【第4回】詩四のところでは、『宗鏡録』巻四十三の冒頭に出る「二祖得法」についての記述を引用した。二祖は心を求めたが、結局「心を覓むるも不可得」とわかり、そこでたちまち、完全無欠の唯一の真心が法界にあまねくいきわたっていることを悟った。それゆえに達磨から印可されたのである。 「一瓠蘆下」は、ナマズをおさえられるかどうかのポイントである。そこを「急著眼看」、しっかり見届けよ、というのだが、そこをしっかり見届けたからといって、ナマズを抑えることが可能になるというのではない。すなわち、「急著眼看」は達磨二祖の問答でいうならば「将心来(心を将ち来たれ)」というところを指すのであろう。 そして「若捺不得」は、二祖が「覓心了不可得」とわかるところ、「飛上竹竿」は、『宗鏡録』の言葉でいえば、「唯一の真心の円成して周徧せることを知って、当下に言思道断」するところに相当しよう。 【訳】瓢箪の下(に鮎をおさえることはできぬところ)、そこをしっかりと見届けよ。 おさえ込めないとわかったならば、(その時)鮎は竹竿に飛び上がっているであろう。 初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)
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