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関連論文:瓢鮎図・再考


【第5回】 詩五 (愚隠)昌智

瓢轉鮎旋、両箇mojikyo_font_061414跳。 (瓢は転がり鮎はめぐり、両箇ふたつともmojikyo_font_061414ぼっちょうす)
大地山河、同時失笑。 (大地山河せんが、同時に失笑す)

詩五 愚隠昌智(生没年不詳)、夢窓派。「瓢転」は、水上あるいは水中で瓢箪を抑えることが困難なこと、「按不得」「按不著」であることをいう。禅語の「水底按葫蘆」「水上葫蘆子」「葫蘆按水」の語をふまえたものである。

水中で瓢箪をおさえつけても意のままにならないように、とらわれず転々自在なことをいい、また「心のありよう」になぞらえることも多い。『碧巌録』四十三則、本則評唱には「巌頭道わく、水上の葫蘆子の如くに相い似たり……」と出るが、巌頭の本録には見当たらない。巌頭の法嗣である道閑禅師の録に、次のように出る。
 『聨灯会要』巻二十三、福州雞山道閑禅師章(41)に、
這箇しゃこ は水上の葫蘆子ころすの如し。人のおさえ得る有りや。常露現前、滔滔地として自由自在なり。未だ嘗て一法としてそれを蓋得する有らず、未だ嘗て一法としてそれに等得する有らず。
撥著はつじゃくすれば便ち露われ、触著そくじゃくすれば便ち転じ、轆轆地ろくろくち たり。蓋声がいしょう蓋色がいしきぶれば即ち周流しゅうるして滯り無し。常露現前す。
 這箇(それ)は心である。『宗鏡録』の表現で言い換えるならば「円成して」「一切処に徧き真心」である。
 また『大慧語録』巻二十一、「示妙浄居士」に(42)
時時に自己の脚跟下に向かって推窮し、推し来たり推し去って、内、能く推す心の有ることを見ず、外、推さるる境の有ることを見ず。じょう裸裸ららしゃく灑灑しゃしゃにしてもつ可把かは
水上に葫蘆を放つに、人の動著する無きに、常に蕩蕩地として他を拘牽すること得ず、他を惹絆すること得ず、撥著すれば便ち動き、触著すれば便ち転ずるが如し。かくの如く自在なり、かくの如く瞥脱なり、かくの如く霊聖なり。
水の上に瓢箪を置けば、人がさわらなくてもユラユラとして、それを捉えとどめることはできず、ちょっとはじけばすぐに動き、触れればたちまちコロコロ転がる。このように自在で、このように素早く、このように霊聖であるもの、それは心である。

 水上あるいは水中の瓢箪が「捉えにくいもの(按不得、按不著)」であり、転々自在なものであることは、瓢鮎図賛の第二の重要モメントであり、以下の詩八一四二二にも見られる。

 一方の鮎も心を表わしたものであることは、既に述べたところだが、水中を自在に遊泳する魚を心になぞらえられることもまた経典に見える。『正法念処経』巻五(43)では、心を猿猴、伎児に喩えたのちに、さらに次のようにいう、
又た彼の比丘、禅に依って心の弥泥魚を観察すること弥泥を見るが如し。弥泥魚の河中に在るが如く、若し諸もろの河水急速に、乱波深うして流るること疾きときは行くことを得可きこと難し。
能く無量の種種の樹木を漂わす。勢力暴疾にして遮障す可からず。
山澗の河水の迅速にして急悪なるに、彼の弥泥魚、能く入り能く出で、能く行き能く住まる。心の弥泥も亦復かくの如く、欲界の河急疾く、波乱るるに於て、能く出で能く入り、能く行き能く住まる。
弥泥魚、弥泥は、ともに単に魚の意である(44)。この『正法念処経』の一段は『宗鏡録』巻三にも引用されている。

 三、四句の「大地山河、同時失笑」、『禅林画賛』では「大地も山河も、同時にふき出し笑い」と訳している。この訳によれば、瓢箪と鮎の転がり合いを、側から見ていた擬人化された大地と山河が面白がって(あるいはバカにして)笑った、というように解釈されよう。

確かに、賛詩の中には、瓢箪でナマズを抑えるという愚行を笑うものがある。たとえば、詩九の「捺住捺不住、唯供一笑娯」、詩一四の「咲它作這去就、大人前莫軽忽」、詩一七の「躂倒通身泥水、傍観盧胡〃〃」、詩一八の「二物滑難把定、観者咲而軒渠」、詩二五の「可笑終身不得黏」などである。

失笑は日本語では、「愚かな言行など」によって思わず笑わされるというニュアンスがあるが(45)、漢語としては「思わず笑い出す(不覚失笑)」であって、必ずしも常に「愚行を笑う」とは限らない。『南堂了庵禅師語録』巻六の「明書記を送る」に(46)
万仞崖頭、転身の句、金毛の師子も自ずから類せず。
西江を一吸して底に徹して枯る、馬師は首を縮め龐公は畏る。
忽然として平地に波涛翻えり、鼻孔に浸爛して何れの時にか乾かん。
虚空は失笑し万象は舞う、栴檀葉底、香り曼曼。……
「西江の水を一口に吸尽せよ」は馬祖大師が龐居士に言った語であるが、その境界に対して、虚空も思わず笑い(失笑)一切万物が踊り出すというのである。この場合の「失笑」の対象は「愚行」ではないし、何らの貶意も含まない。むしろ、通常の笑い以上の含意がある。

禅録では「虚空笑」という表現がしばしば使われる。これはいわば宇宙の笑い、法身そのものの笑いであり、時には契悟の端的をもいう表現である。いくつかの例を見てみよう。
竺仙梵僊(1292〜1348)『天柱集』「酬無用首座并序」に(47)
……独足で卓立す万仞の崖、従教さもあらばあれ、背面に手を以て推すを。
一心、虚空界に充満す、管せず、背面に笑いたることを
「一心、虚空界に充満す」、つまり一心そのものである虚空が笑うのである。また、無学祖元(1226〜1286)『仏光録』重陽上堂に(48)
今朝は九月九なり、葉落ち山容は痩す。
いにしえならって戯れに高きに登り、万象を朋友と為す。
満ち泛るる大海波を、且らく重陽の酒と作し、
一吸に大海を乾せば、虚空、笑口を開く、阿呵呵。……
重陽の日に山に登り、大自然と一体になった境地、そこを「虚空、笑口を開く」という。また、鉄舟徳済(?〜1366)『閻浮集』の「悟庵号」頌に(49)
一たび自家底を打破してより、虚空を驚得して笑いあぎとに満たしむ
「悟庵」の名前に因んで、悟りの端的を「虚空が笑う」と表現したものである。「山河大地が笑う」という表現もある。江戸初期の江月宗玩(1574〜1643)の『欠伸稿』元旦偈に(50)
たちまち三陽交泰の辰に遇う、山河大地、笑いぎんぎん
誾誾は、禅録では「笑いのさま」の意で用いられる。正月は易では乾下坤上、天地交わり万物通ずる時である。その元正をむかえ、山河大地、天地一体となって笑っている、というのである。

 以上の例からすれば、三、四句の「大地山河、同時失笑」は、瓢と鮎、更には草木も川も山をも包含した、山河大地(法界)そのものが笑っているところであろう。その想の広がりは詩三で見た「道術有余」に共通するものである。

【訳】瓢箪はコロコロ転がり鮎は泳ぎまわり、このふたつは跳ね回る。
草木国土、山河大地も、思わず笑い出す。
初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】

  1. 『聨灯会要』巻二十三(『卍続蔵経選輯』史伝部六、815頁)、福州雞山道閑禅師章、「這箇如水上葫蘆子。有人按得麼。常露現前、滔滔地、自由自在。未嘗有一法解蓋得伊、未嘗有一法解等得伊。撥著便露、触著便転、轆轆地、蓋声蓋色。展即周流無滯。常露現前」。
  2. 『大慧語録』巻二十一(大正大蔵経巻四十七、900頁)「示妙浄居士」に「時時向自己脚跟下推窮、推来推去。内不見有能推之心、外不見有所推之境。浄裸裸赤灑灑、没可把、如水上放葫蘆。無人動著、常蕩蕩地拘牽他不得、惹絆他不得。撥著便動、触著便転。如是自在、如是瞥脱、如是霊聖」。
  3. 『正法念処経』巻五(大正大蔵経巻十七、24頁)「又彼比丘、依禅観察、心弥泥魚、如見弥泥。如弥泥魚、在於河中。若諸河水、急速乱波、深而流疾、難可得行。能漂無量種種樹木。勢力暴疾、不可遮障。山澗河水、迅速急悪、彼弥泥魚、能入能出、能行能住。心之弥泥、亦復如是、於欲界河、急疾波乱、能出能入、能行能住」。
  4. 辛嶋静志氏のご教示による。「弥泥」は、梵語のmiina(魚)に対応。「弥泥魚」も「魚」の意味で、梵本にmiinaの具格miinenaがあるところを「弥泥魚」と訳したものという。
  5. 小学館『日本国語大辞典』「失笑を買う」に「愚かな言動のために、他の人から笑われる」。
  6. 『南堂了庵禅師語録』巻六(『卍続蔵選輯』、禅宗部一九、716頁)送明書記、「万仞崖頭転身句。金毛師子自不類。一吸西江徹底枯、馬師縮首龐公畏。忽然平地波涛翻、浸爛鼻孔何時乾。虚空失笑萬象舞、栴檀葉底香曼曼。拈却洞山三頓棒、凛凛英風争近傍。北往南来総未知、蕭洲水落沙痕漲」。
  7. 『天柱集』(『五山文学全集』巻一、697頁)、「独足卓立万仞崖、従教背面以手推。一心充満虚空界、不管背面笑咍咍」
  8. 『仏光録』、「今朝九月九、葉落山容痩。効古戯登高、万象為朋友。満泛大海波、且作重陽酒。一吸大海乾、虚空開笑口。阿呵呵。……」。
  9. 『閻浮集』(『五山文学全集』巻二、1260頁)。
  10. 大徳寺龍光院蔵、江月宗玩自筆『欠伸稿』、「欻遇三陽交泰辰、山河大地笑誾誾」。

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 Last Update: 2003/07/21