坐禅和讃 〔解説〕
白隠禅師の著作の中でもっとも知られたものといってよい。龍吟社版『白隠和尚全集』の解題に、「始めは松蔭において印施し、後に諸方にて印施し、林際門下の法席にては、今は普く之を唱ふることゝなれり」とあるが、底本が何であるかは明確ではない。また「松蔭寺本」は未見である。
三島・深沢氏蔵の自筆本がある。また『坐禅和讃 美加幾毛利』合刻(友松堂、刊年不詳)がある。
上記の『白隠和尚全集』解題にいうように、現在では臨済宗の寺院では毎日、法要の席でも必ず唱えられるので、いわば白隠禅師の代表作として受け止められ、「一種の信仰的旗印のようになって」いるが、その内容に疑義ありとして、問題提起したのが陸川堆雲氏である。
その論は、昭和38年に刊行された『考証白隠和尚詳伝』第八章、「座禅和讃について」に詳しい。氏は「この和讃の特色なるものは、禅宗門外の人を禅宗内へ誘導するための呼び込み的の和讃であつて白隠禅を表現せんとしているものではないのである」といい、さらには「既に禅圏内の人となりて修行しておる僧俗男女が、朝夕これを読誦するのは全く無意義である」とし、「禅堂内に於ては別に読誦すべき、適当のものを撰ぶべき」だとしている。
『坐禅和讃』を白隠禅の精髄のように考えるのには、確かに問題があろう。気になることがいくつかある。
その一、白隠禅師自身がもっとも標榜したかった和讃であるならば、法施に関してあれほど饒舌だった禅師のことである、自ら『坐禅和讃』をおびただしく書かれていたであろう。しかるに禅師自筆のものは、目下、深沢本ただ一点しか残らないのはなぜか。
その二、『坐禅和讃』が禅師の思想のエッセンスであり根幹であるならば、禅師の他の著作中に、この和讃のこと、あるいはその考えが繰り返し示されていてしかるべきであるが、たとえば「布施や持戒などの諸善行はみな禅定に帰する」とか「一坐の功をなせば無量の罪も消える」といった主張はまったく見られないのである。この二点は大きな謎である。
いったい、『坐禅和讃』はいつごろ書かれたものであろうか。『禅籍目録』では「宝暦10年」の成立としているが、これは『坐禅和讃』が合冊されている『みかきもり』の成立が宝暦10年なのであって、『坐禅和讃』そのものの成立年次を示すものとはいえない。
唯一残る白隠禅師自筆の『坐禅和讃』が深沢本(筑摩書房、図録『白隠』263)であるが、これにも年次は記されていない。陸川氏は前掲書で「和尚の何歳の時に撰述されたものか未だ詳かにしないが、晩年の作であると推し得る理由があれど今はその穿鑿は省略する」と述べている。その理由が開示されなかったのは残念である。
もし『禅籍目録』の宝暦10年成立説を受けるのならば、白隠はこの年に76歳である。しかし、宝暦10年成立説に疑いが残ることは、上で見たとおりである。筆者はむしろ、若い時に書かれたものではないかと考えている。
上記の深沢本には脱字もあり誤記もあり、また後から別人によって挿入された部分もある。最後の部分にある「何ヲカ求ムベキ、寂滅現前スル故ニ」の15字は何らかの理由で欠けていて、明治になって釈宗演禅師が挿入し書き入れたものである。
そして末尾の「到処便蓮華国、其身即仏ナリ」の部分は、下欄外に横向きに書かれている。体裁および内容からして、どうみても草稿である。しかも、その筆跡は常に見なれた禅師の筆跡とは異なるものである。
図録『白隠』の編者竹内尚次氏は「書体から見て白隠の法語類の上梓を始めた当初、60歳頃と思われる」としている。先にいったように、陸川氏も「晩年の作」としている。ならば、この自筆本も晩年に書かれた書跡ということになるのだが、とても円熟期の白隱の手蹟には見えない。
実のところ、筆者はこの深沢本がはたして禅師の真蹟であるのかどうか、若干の疑いを持っていたのである。しかし、ある時期の禅師の書跡に近いことが判明した。その筆跡は『布鼓』自筆草稿(長沢信義氏蔵)のそれに近似しているように思う。
上に整理したように、禅師の書体における特徴が共通して見られるのである。『布鼓』草稿が書かれたのは、禅師が34歳もしくは40歳の時までである(『布鼓』解説を参照)。深沢本『坐禅和讃』も、ほぼ同じ頃までに書かれたものと筆者は考える。
理由は筆跡だけではない。これとは別の理由がある。42歳以降の禅師が、『坐禅和讃』のような趣旨を積極的に標榜することは考えにくいからである。禅師の思想は42歳の時の「大悟」を境に根本的に変わったのである。『壁生草』下15丁裏には、次のようにある。
一枚の青竹籠を設けて、其の中に入つて、内観と禅観と共に合せ並べ修して清苦す。貴ぶ可し、内観の功に依つて、従前多少の病悩は底を払つて平癒す。清閑瀟酒、岩瀧に在りし日より遥かに勝れり。貧を観ぜず富を知らず、万里人無き処に在るが如し。其の楽しみ、万戸侯の富と雖も加う可からず。人間天上の善果求むるに足らず。誰か信ぜん、東道浮島の駅、貧富混乱、是非喧嘳、人馬往来、絡駅たる窮巷の穢土を半捉して、深山巌崖、人跡不到の岩瀧の山中に斎しからしめんとは。
ひたすら坐禅して禅悦にひたっていた時期である。『年譜』ではこれを41歳の時のこととする。しかし、その翌年42歳の秋、禅師は大悟する。『年譜』ではその時のことを、
豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。
と記す。同じ時のことを『壁生草』下16丁裏では次のように言う、
或る時、予、熟志念すらく、清閑を楽しみ枯淡を忘れ、常に内観を精修して、縦い彭祖が八百の歳時を保つも、恰も老狸の旧窠に睡るに似たり。如かじ、是れより正受の遺嘱に随い、尋常大法施を行じて、無量の苦衆生を利済し、真正透関の衲子を摂出し、仏国土の因縁を精修し、菩薩の威儀を学んで、以て遠大の計を定め、真正透関の衲手[子]を三五箇を打出し、仏祖の広大の深恩を報答せんと欲す。
また、『年譜草稿』の補記では、
後久疑菩提心、是何等者。久□至不惑之年、決定菩提心是不出四弘誓願輪。
という。つまり「菩提心とは是れ四弘の誓願輪を出でざること」を悟ったというのである。それまでの「悟解了知」は誤りだった、それより仏国土の因縁、菩薩の威儀を学ぶことこそ大事だと気付き、それ以来、もっぱら衲僧の接化と法施に邁進してゆくのである。
この「仏国土の因縁、菩薩の威儀」、「四弘の誓願輪」、「菩提心なければ魔道に落つ」、このことこそ、以後つぎつぎと著わされる白隠法語に繰り返し繰り返し説かれることである。
『坐禅和讃』の精神の陳述が、白隠法語にほとんど見られないのは、右の事情によるものではないか。若き時に書いた『坐禅和讃』を、白隠はもう書かないのである。もっとも重要で主張すべきことが、他にあったからである。
陸川氏は『坐禅和讃』に代わって誦むべきは「四弘誓願」でなければならないと言われている。白隠禅師の仮名法語全体に目を通し、禅師の生涯の布教活動を概観してみるとき、その説に賛同をおぼえるのである。