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関連論文:瓢鮎図・再考


【第12回】 詩一二 (□章)妙成

聖朝恩沢余、游泳及鮎魚。 (聖朝、恩沢余り、游泳して鮎魚に及ぶ)
不費孟賁、葫蘆捺住渠。孟賁もうふんの力を費さず、葫蘆、かれおさとどめん)

詩一二

『禅林画賛』では「聖朝」の注に「当代の朝廷の尊称。しかし、ここは足利義持の善政をいうのだろう」とし、「当代将軍様のめぐみはあふれ」とする。

朝廷への尊称をもって将軍をたたえることは不遜であってありえぬ。天子の御代をいう。しかも、単に天子をたたえるだけではない、天子は天道と民庶・万物とをとりつぐ存在である故に、天子を通じて天道のめぐみをたたえるものである。『淮南子』氾論訓にいう(57)

天道の貴きたるや、ただに天子の尊たるのみに非ず。在る所にして衆之を仰ぐ。……帝たる者、誠に能く道を包禀し至和に合すれば、則ち禽獣草木、其の沢を被らざるはなし、而るを況んや兆民をや。

帝王が内に道を包みいだいて至和と一体になっているから、生きとし生けるものが天道のめぐみに浴するというのである。また『中峰広録』巻一の上「聖節示衆」に(58)

大なるかな乾元、至なるかな坤元。一気、万有を含容す、民、得て名づくる無し。功は列聖の上に高く、徳は群王の先に邁る。蕩蕩たるかな用大、巍巍たるかな体堅。……大衆、た知るや。即ち曰く、瑞は刹土に分かれ、春は寰区に満つ。大毘盧頂、身を分かって、優曇鉢華、燄を吐く。故を以て、天下、之を称して聖人の佳節と為す。あらゆる天地の間に生植せる者、其の沢を被らざるは莫し。……

とあるように、仏教の立場から言うならば、天道とは毘盧遮那法身に他ならない。禽獣草木すべて、瓢箪も鮎も竹も男も、すべてが天道(法身仏)のめぐみのただ中にあるという趣旨であり、【第3回】の「道術有余」、【第10回】の「天地一蘧廬」と同じ世界観に想を発するものである。孟賁は、水中を行くときは蛟龍をも避けることがなかったという戦国斉の勇士である(59)

【訳】聖天子によって天道のめぐみは、泳いでいる鮎にまで及んでいる。
彼の孟賁のような力を用いずとも、瓢箪で鮎をおさえることができよう。

初出『禅文化研究所紀要 第26号』(禅文化研究所、2002年)

【注】
  1. 『淮南子』氾論訓「天道之貴也、非特天子之為尊也。所在而衆仰之。……帝者誠能包禀道合至和、則禽獣草木、莫不被其沢矣、而況兆民乎」。
  2. 『中峰広録』巻一の上(『卍正蔵経』第60冊、103頁)「聖節示衆」に「大哉乾元、至哉坤元。一気含容万有、民無得而名焉。功高列聖之上、徳邁群王之先。蕩蕩乎用大、巍巍乎体堅。……大衆還知麼。即曰、瑞分刹土、春満寰区。大毘盧頂分身、優曇鉢華吐燄。以故、天下称之為聖人之佳節也。但生植於天地之間者、莫不被其沢。……」。
  3. 『史記』袁盎伝、索隠に「孟賁水行不避蛟龍、陸行不避虎兕」。

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 Last Update: 2004/01/14