花園大学国際禅学研究所
   
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白隠学に向けて(芳澤 勝弘)

【第1回】 白隠禅師とは

 白隠慧鶴禅師(1685~1768)は日本臨済禅中興の祖として、最も著名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠下になるから、現在の臨済禅は文字どおり「白隠禅」といってよい。

 ところで、一般的には、白隠とはいかなる人物として認知されているのであろうか。たとえば、『広辞苑』第二版では次のようにいう。

 江戸時代の臨済宗の僧。駿河の人。名は慧鶴、号は鵠林。正受老人の法を嗣ぎ、京都妙心寺第一座となったが、名利を離れて諸国を遍歴教化、臨済宗中興の祖と称され、庶民に慕われた。気魄ある禅画もよくした。謚号、正宗国師。著「語録」「夜船閑話」「槐安国語」「遠羅天釜」など。

 また、小学館『日本国語大辞典』では、
 江戸中期の臨済宗の僧。諱は慧鶴、別号は鵠林、敕諡は神機独妙禅師・正宗国師。正受老人の法を嗣ぎ、故郷の松隠ママ寺に住したが、翌年、妙心寺へ入り、のち名利を嫌って諸国を遊歴し、仏教を教えた。臨済宗復興の祖といわれる。著に「槐安国語」七巻、「夜船閑話」「遠羅天釜」など。

これらの記述で白隠の何たるかが端的に伝わっているかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、この短文の中に、すでに重大な過ちが潜んでいるのだ。たとえば、「妙心寺第一座となったが、名利を離れて諸国を遍歴教化、……庶民に慕われた」とか、「妙心寺へ入り、のち名利を嫌って諸国を遊歴し」というところである。

 『広辞苑』の執筆者は、どうやら「妙心寺第一座」を何か高い階位であるかのように解しているようである。「第一座」という高い位になったが、そのような名利を嫌って諸国を遊歴し、その結果、「庶民に慕われ」た、と受け取れるように説明しているからである。

 ここの記述は、『白隠年譜』享保3年、34歳の条に出る「冬十一月、位を花園第一座に転じ、白隠と号す」とあるのをふまえたものだろうが、そもそも「第一座」というのは、妙心寺派寺院の住職となり得るための最低限の僧職階位を言うものであって、いささかも「名利」の対象となるべきものではない。また「妙心寺へ入る」と言えば、通常は妙心寺住職となることを意味することになるのだが、白隠の場合、そのような事実はない。

 上に引いた『白隠年譜』の部分は、いわば、妙心寺派僧侶としての最低限の資格を取得するという事務手続きを行なったというに過ぎないのである。したがって「名利を離れて」「名利を嫌って」の表現は無用である。「名利を離れる」ことが高僧の条件であるといった、安易な前提がそこにありはしないかとも思えるのである。

 その他、白隠といえば、「一生、黒衣で通した」「庶民に分かりやすく法を説いた」「幼児期に体験した地獄の恐怖を、厳しい修行によって克服した」といった類のことがよく言われる。これらは必ずしも間違いではないが、だからといって、そのようなこま切れの事実を連ねたところで白隠の本質を言い現わすことには必ずしもならないのである。

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Last Update: 2005/10/23


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