【第6回】 没後250年(2018)に向けて、「白隠学」の提唱
まもなく没後250年になるが、白隠ほどその本質的探求がなされぬままで放置され、しかも一方で崇めたたえられて来た宗教家も少ないであろう。
繰り返して言う。白隠の思い描いた「宗教革命」は、「上求菩提、下化衆生」という実践的テーマに集約される。それは永遠の未完成である。永遠に問い続けられるべき課題であり、その時代その時代において、常に新しい意義を見いださねばならぬ、そのような課題に他ならぬ。
文化・政治・経済あらゆる分野で矛盾が噴出している昨今である。白隠禅師が今の世におわしたならば、どのような一句を吐き、どのように対処されるであろうか。こうした現代的課題に対する答えは、他ならぬ禅師の著作の中にそのヒントがこめられている。新しい切り口によって、白隠禅師の著作をとらえなおさなければならない。
漢文語録・仮名法語・書簡・墨跡・禅画、これらの著作に内包される禅師の思想を汲み取るには、仏教学、禅学、禅宗史学の方法や観点からする解析のみでは不充分であるし、むしろ、広大な視野をもった白隠思想を矮小化してしまうことになる。国語国文学、民俗学、芸能史、美術史、政治史、地方史、思想史、心理学等々、あらゆる視点から、その特徴を解明することが必要である。
なぜならば、白隠その人こそが、社会のあらゆる部門にすこぶる旺盛な関心をもち、日本文化のあらゆる要素を取り入れた著作や禅画によって法を説いた、希有な禅僧だからである。このような、白隠思想の総合的解明を、私は「白隠学」と名づける。法財は、ほとんど手つかずのまま、そこにある。